手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

死を問わないこと

現代の私たちは 、この生死する 〈いのち 〉への問いを見失っている 。そう言えないであろうか 。その理由の一つは 、こうである 。私たちにとって 〈いのち 〉とは 、生きていることに関わるだけのものとなり 、死から切り離されてしまっているのではなかろうか 。肉体的な生命の延長をはかることにおいてのみ 〈いのち 〉を考え 、死をタブー視し 、見えなくしている 。たとえば 、脳死による臓器移植や遺伝子治療などの先端医療も 、その例外ではない 。そして 、私たちは無意識のうちに 「人は死ぬけれども 、自分は死なない 」と 、死を他人事として生きている 。そうしなければ楽しく生きていけない 、という死についての無思想のなかにいる 。死を問わないようにすることによって 、生まれ 、老い 、病んで 、死んでいくという 、生死する 〈いのち 〉のありのままのあり方が覆い隠されていく 。新たな生命の誕生を 、生きている人間にとって好都合のものに変えようとする 。老いることを阻止しようとする 。治らない病気を根絶しようとする 。ひたすら延命を求め 、長寿に拍手喝采をする 。これが現代である 。このように 、死を生活のなかから排除して 、いつまでも生きていようとし 、たとえ死んでも死んでいないと幻想したりする 。あたかも死なない 〈いのち 〉を生きているかのように 、物質としての生命の循環が美しく物語られたりするのも 、そのためであろう 。
【親鸞が出遇った釈尊   小川一乗  真宗文庫より】



臭いものには蓋をする、という諺がありますが、この世で最も臭いものは何でしょう。それは、私が死ぬ、ということではないでしょうか。そのことに異論を唱える人はいないでしょう。私が死ぬ、ということを考えないように生きていましても、そんな私の思いとは関係なく死はやってきます。残念ながら。
行き先(死後)がハッキリしない生活は不安です。そこに本当の安心というものはありません。真正面から、私が生きること、裏を返せば、私が死ぬことについて考えていきたいものです。多くの哲学者をはじめ、いろいろな人を悩ませ苦しめた生死問題ではありますが、幸いにして浄土真宗の教えにその回答があります。手品師さん、なにをあなたはそう決めつけているのですか?!と突っ込みが入りそうですが、実際そうなのですから、そういうしかありません(笑)
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏