手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心決定について

 先日、ある方から、「毎日お念仏申しているのに、ご信心を得たという確信がもてない」「信心決定した瞬間を感じることができるのか?」という素直な思いをぶつけれられました。
 信心決定については、はっきりとその瞬間を認識する人がいるかもしれませんが、長いお育てのなかではっきり認識できない人もいる。人それぞれであると言えるのではないでしょうか。ただ、はっきり言えるのは信前と信後があることが認識できることでしょう。つまり仏法を聞いてもわからず、教えが腹の底に落ちない自分と、私の姿が教えを通して見えるし、その私にかけられた阿弥陀さまの願いに頭が下がる自分です。阿弥陀さまの願いにうなづけない自分か、うなづける自分かという違いです。阿弥陀さまの願いを疑う自分か、疑いのなくなった自分かという違いです。自分で懸命に見つめてもわからなかった自分の心が、教えに私のありのままの心の姿や動きが示されていることを知らされるのです。
 生活のなかでは、阿弥陀さまのこころではなく自分自身の心にまかせて生きることの方が多いですから、信前信後という違いも見失いがちになってしまうこともあるでしょう。それゆえ先達は、信心の溝をさらえて、弥陀の放水を流しなさいとおっしゃるのです。信心を得たらそれでよいのではなく、信心を得てからありのままのわが心を知らされ、ほんとうの意味での仏法聴聞が始まるのです。
【私のものさし 仏のこころ P55,P56より 西光義秀 探究社より】



妙好人 源佐さんは「ふいっとわからしてもらったいな」と語っています。
ただ、源佐さんのように「ふいっ」とわからせてもらわなければならない、というふうに考えるのは間違いです。
ここでありますように、
「はっきり言えるのは信前と信後があることが認識できることでしょう」とあります。
南無阿弥陀仏のおはたらきに気づかせていただく』ことは共通ですが、その認識の度合いは様々だと思います。
そこで、蓮如上人は『「しばしば信心の溝の底をさらい、阿弥陀さまのみ教えの水を流しなさい」ということもあるようです』(蓮如の手紙 浅井成海 国書刊行会 P44)とご教示されています。
「信心を得た確信が欲しい!」とか「信心決定のその瞬間を感じたい!」と思う気持ちは分かりますが、そこに傾いてしまうのはお門違いです。
大事なのは、『阿弥陀さまの願いを疑う自分か、疑いのなくなった自分かという違いです』ということです。
阿弥陀さまに向かわせて頂きたいものです。今日もなもあみだぶつ。