手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

なにか手応えが欲しい!と力む人

 一般に信心というと、自分の方に救われるものがらを作ることのように思い、信心を頂くといえば何か頂いたものを予想し、長い間聴聞しているのに頂けない、もっとしっかり聞いたら頂けるに違いないと、力んでいる人もおりますが、聴いて間違いない手ごたえのあるものができたのなら、聴き癌ができたのでそれを疑いといい、本願の名号はその疑いを除くのですから、聴いてできた確信のとられたのを信心と申すのであります。妙好人にはいろいろなタイプの人がおられますが、
 「胸に咲かせた信の花 弥陀にとられて今ははや、信心らしいものは更になし、自力といわれて苦にならん、他力というてもわかりゃせん、親が知っていりゃ楽なものよ、往生はなげたなげた」
何とみごとな、そしてさわやかな信心の表現でしょう。
 「ナンマンダブツにうたがいとられて、才市うたがいどこにいった、六字の中でごおんよろこぶ」
 この世界にこそ、信心正因・称名報恩に生きる人の尊い念仏者の人生があり、そのご報謝はどれだけ努力しても尽きない世界でございます。
【言葉のひびき 豊島学由 探求社 P51,P52より】



阿弥陀さまの救いに、「なにか手応えが欲しい!」と力む気持ちはわかります。
しかし、いくら頭をこねくり回し力んでもなんの解決にもなりません。それは、自分の期待や思い込みでしかありません。自力のなにものでもありません。阿弥陀さまに向かわせて頂きたいものです。
「信心を頂く、信心を賜る」という表現は、人によっては、なにかモノや物体を頂く、というような受けとり方をしてしまう恐れがあります。「南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂く」という表現の方がより分かりやすいですね。
上記で紹介しました(六連島の)お軽さんや(浅原)才市さんの詩には、そのような「ものがら」は微塵もありません。
「聞こえたままが信心」なのです。
今日もなもあみだぶつ



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