手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

善魔

 仏教辞典には、自己の善根(ぜんこん)に執着することを「善根魔(ぜんごんま)」となっていますから、「われこそ善事をなせり」という思い上がりを「善魔」というのでしょう。それだけに、悪魔には誰しも警戒しますが、この善魔には気づかないようであります。
 地球上に、争いの絶えた時がありません。お互いに自己の非を非と、率直に認める謙虚さがあれば争いは生まれないでしょうに、「われは善なり、われこそは正義なり」とそこに執われるところから、争いが生まれております。
 大は国家間の戦争から、小は家庭内のもめごとまで、すべてこの善魔が動いています。
 お釈迦さまの発見された宇宙の真理である仏法は、人間のこの善魔そのものが、仏法を邪魔するのです。「私は仏法の為に努力し世の中に貢献もしてきた。それなのに、私を認めない。お念仏を称えていてもあの人は口先だけで、ほんものではない。私こそ仏法の為に努力しているのだ」とここで善魔が動き出す。折角争いをなくすはずの仏法をききながら他人をせめる武器にしてしまう善魔が正義の味方を集めて相手をやっつけるのであります。
 もとより悪魔もそしてこの善魔も、誰しも自分の内にあるのですが、如来さまの悲しまれるもとが、悪魔よりむしろこのタチの悪い善魔にあることを気づかせていただけば、聴聞は決して他人事でなくなるわけであります。
【死はかねて生のうちにあり 豊島學由 自照社出版 P81~P82より】



歴史は戦争史ともいわれますが、ここ最近におきましてはその緊張感が高まっています。
それはさておきまして、
自分優先主義、自分大好きの固執は、日々の生活だけではなく、私の生死問題解決という点からにおきましても大きなハードルとなっています。悪魔は勿論ですが、善魔にもより留意して聴聞していきたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏