手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

当たり前なことにありがとう

 「ありがとう」という言葉は、なぜかとても照れくさいものです。
 何かをもらったり、何かをしてもらったりした時には、普通にその言葉は出てくるものですが、そうではない時、もっとごく当たり前にそれがありがたいような時には、なかなかそれが出てこない。というより、それが当たり前だからこそ、じつはそのありがたさに気がついていないというべきなのでしょう。
 どういうことかと言いますと、たとえば、その人がそこに「いる」ということ、あるいは、世界や自然が「ある」ということ、さらには、自分がここに生きて「いる」ということなどです。私たちにとって、これよりも当たり前で、当たり前だからこそ、ふだんその当り前さに気がつかないことはないでしょう。ところで、どうしてこれが、ありがたいことなのでしょうか。
 私の経験から話しましょう
 私は数年前、とても可愛がっていた愛犬をなくしました。十五年間、寝食を共にし、お互いに愛し合ってきた仲でした。その時、私は彼のことをとても愛しいとは感じていましたが、そのことがありがたいというふうには気がついていませんでした。彼がそこにいることが、当たり前のことだったからです。
 ところが、彼を亡くしてみて、私は深い悲しみに沈みましたが、やがて、その悲しみの感情が、彼に対する感謝、「ありがとう」の気持ちに変わってくるのに気がつきました。いてくれて、ありがとう。私のところに来てくれて、本当にありがとう。私はなんとありがたい日々の中にいたことだろう。当たり前に思っていたことが、なんてありがたい経験だったのだろう。そんなふうに気がついたのです。
 彼という存在に対する感謝です。彼がそこにいるだけで、ありがたいことだったのです。べつに彼は私に何をしてくれたわけでもない、どころか、世話はやけるし、お金はかかるし、その意味でとても大変なことではありました。それでも、彼がいるだけで、そのことだけで私はよかった。彼の存在そのものが、ありがたいことだったのです。
 彼という存在に対する感謝、とは、もっと言うと、彼という存在に出会わせてくれた、もっと大きな何かに対する感謝となります。考えてもみてください。この広い世界、果てしない宇宙の中で、誰かと誰かとが出会う、出会って愛し合うなんてことは、なんという偶然、なんというありがたいことなのでしょうか。
 「ありがたい」とは、じつは、「在り難い」という意味です。そのようなことが存在することが難しい、難しいけれども存在した、そういう意味なのです。在り難いことが在ったということは、つまり、奇跡ということです。奇跡とは、何か変わった特別の出来事を言うのではなくて、いつも当たり前に思っていたことが、じつはすごいことだったと気がつく、そういうことなのです。この奇跡に対する驚きの感情が、感謝という感情の基礎にあります。ありがとう、この奇跡の経験を、ありがとうございます。
 誰に対する感謝でしょうか。
 昔の人なら、神様とか仏様とかいったかもしれません。現代の私たちは、それを何と呼びましょうか。それを何と呼ぶにせよ、何か大いなるもの、人間の意志や思惑を超えた何か大きな存在を、やはり私たちは感じることができます。それを感じるときにこそ、私たちは、心の底から本当に素直に、「ありがとう」ということができるのでしょう。
 ふだん当たり前に思っていること、家族や友人がそこにいること、そして、なにより自分がここにいるということ、このことに改めて感謝するなんてことは、ちょっとうそくさくて、できることではないでしょう。それでも、うるさいばかりの親たちや、意地悪ばかりする友人たちも、この広い宇宙の中で、なぜだかわからない偶然によって、出会った奇跡の人たちなのです。そう思って彼らのことを見てみれば、彼らを見る目も少し、違ってくるのではないでしょうか。彼らはそこにいるだけで、すごいこと、ありがたいことなのです。
 自分が存在することへの感謝、それはおそらく人間にとって、究極の感謝でしょう。誰もそんなことは当たり前だと思っているからです。でも、どこか空気の澄んだところへでも行って、星空を見上げてみてください。自分が存在するということは、なんという不思議、究極だと気がつくはずです。そのとき、そこには、感謝の気持ちが存在するはずなのです。
【犬の力を知っていますか? 池田 晶子 毎日新聞出版社 P165~P168より】


通じるものがありますね〜
今日も南無阿弥陀仏



蓮太郎(ポメラニアン)