手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏教を学ぶ出発点

地獄はあるのか?
学生から時々、「極楽って本当にあるんですか。阿弥陀さんって本当におられるんですか」という質問を受けます。その回答に「おられるんだよ」と答えれば、「先生、本当におられるのだったら私の目の前に出してくれませんか」と平気でいいます。そこで私は、次のように答えております。


私は今、煩悩に汚れた迷いの世界にいるから悟りの世界のことはわからないし、私には阿弥陀さんが見えません。また極楽も地獄も見ることができません。このようにわたしたちにはわからない悟りの世界の様相を、自ら悟りに至って体験されたお釈迦さまが、悟られた世界の様子を私たちに示してくだっているのが「経典」なのです。その経典に「極楽がある、地獄もある、阿弥陀さんがおられる」と書かれているのです。私たちが窺い知ることのできない悟りの世界だからこそ、その様相を知ろうとして仏教を学ぶわけですから、そこに私たちに納得できないことが書かれてあったとしても当然で、それに疑いを挟む余地などまったくないのです。もし疑いを差し挟めば、悟りの世界の様相に迷いの凡夫が口出しすることになるわけですから、とにかく信じる以外に仏教を学ぶ方法はないのです。君たちに抵抗があるかも知れませんが、この信じることこそが、仏教を学ぶ出発点なのです。だから、「仏法の大海に入るは信をもって能入となす」(大智度論)といわれる所以です。お釈迦さまのいわれることに決して誤りはないと信じることが、仏教の入り口(能入)なのです。ところが、どうしても私たちは自分自身が正しいと思ってしまい、自分にとって納得できないことは誤りだと考えてしまうでしょう。これこそが煩悩なのです。ところが、その煩悩に気づかないのが悲しいかな、私たち凡夫なんですよ。
【生かされて生きる  浅田正博  探究社 P35、P36より】



ごまんとある宗教の中、仏教、その中でも浄土真宗のみ教えに出遇えていることだけを考えてみましても凄いことだと思います。このことは、もはや『縁』としかいいようがないように思います。
ここでも、
「とにかく信じる以外に仏教を学ぶ方法はないのです」とありますように、それ以上の言葉はみつかりません。
私のはからいを超えたものにおいては、私のものさしでどう計らっても計りきれるものではありません。私の計らいを超えたもの(南無阿弥陀仏)に委ねるしかありません。
『ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。』
と示された親鸞聖人のお言葉が響きます。
今日も南無阿弥陀仏