手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏

お念仏 1
 お念仏には一つの危険があります。本願の名号を自分の善根にしようとする危険、称名にしがみつこうとする危険です。けれども同時にまた、お念仏が他力をわからせてくださるというとことがあります。だから称名念仏が大事なのです。他力の信心に入ってから念仏すればよいというのではなく、お念仏しているうちにいつの間にか阿弥陀さまにまかせる心が自分に恵まれるのです。お念仏をしない人は、絶対に他力には入れません。自力念仏なんかいくら称えても駄目だと言っている人は、とうてい他力に入れません。お念仏以外に私を他力に導いてくださる道はないのです。そこに称名念仏の尊さと不思議さがあるのです。
 『歎異抄』には、念仏という言葉が何度も出てきます。「ただ念仏のみぞまことにておはします」(後序、『註釈版聖典』八五四頁)、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」(第二条、『同』八三二頁)、念仏者は無礙の一道なり」(第七条『同』八三六頁)とありますが、本願と言う代わりに、念仏以外に助かる道はないと言われています。


お念仏 2
南無阿弥陀仏を称えているうちに、凡夫の本質をなす我性というものが取れてきます。一体、なぜ私はお念仏をしているのだろう。念仏するはずのない私が念仏している不思議に気づかされるのです。


お念仏 3
初めは阿弥陀さまを信じていなくても、南無阿弥陀仏を形だけでも称えていると、そのうち本当のお念仏になっていく。それは、私の力でそうなるのではなく、阿弥陀さまの願力のおかげでそうなるのです。
【永遠と今 浄土和讃を読む 上 大峯 顯 本願寺出版 P393〜P395より部分的に抜粋】



「(南無阿弥陀仏を)聴きに行き続けておる間に、向こうから聞こえてくる」という表現(久堀弘義師)と相関します。私の好きな言葉です。