手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

なにのやうもいらず

 蓮如上人は、明応七(一四九八)年にお書きになった『夏御文章』第三通で、仏法聴聞の仕方について教えてくださっています。

御こころをしづめ、ねぶりをさましてねんごろに聴聞候へ。
              (『註釈版聖典』一二一五頁)

 蓮如上人の時代でも、お説教が始まるとつい眠ってしまう人がいたのでしょう。しかし、仏法聴聞とは眠りをさますことです。ねんごろに聞くということは、仏法は大雑把に聞いたり、自分の都合のよいように聞いたらいけないという意味です。いらいらしたり腹が立ったままでは、仏法は心に入りません。だから、心静かに聞くことが大事なのです。煩悩の凡夫であることには変わりないのですが、こういう心がけが必要だとおっしゃったわけです。浄土真宗は凡夫のままでいいという教えだから、腹が立ったままで聞けばよいのかというと、それは違います。信心をいただくことは自力ではありませんが、信心をいただくためにはどこまでも聴聞の心がけが必要です。
 蓮如上人はここでは、お聴聞の時の心の用意として居眠りしないということを言われているわけですが、私たちが眠りから本当に覚めるのは阿弥陀さまの言葉を聞くことによってです。私たちはしっかり目を覚ましているつもりでも、やっぱり眠りのなかに生きているのであります。さまざまな欲望に惑わされているのは、眠りのなかにいるようなものです。その眠りから本当に覚めるのは、信心をいただくことによってでありますけれども、信心をいただく準備として、蓮如上人の言われることを肝に銘じることが大切だと思います。
 蓮如上人がおっしゃる言葉には不思議な迫力がありますね。法を伝えるものは、それを説く人の言葉の力です。蓮如上人の言葉は、教義という電線に信心の電流が通った言葉ですから、それが人びとの心をとらえ感電したのだと思います。浄土真宗の教義は同じだから誰が言っても同じかというと、そうではありません。お浄土という言葉一つをとっても、それを言う人によって、この言葉が死んだり生きたりするのです。本願も往生も浄土も、浄土真宗の根本語です。こういう言葉は今日まで何百年も生き残ってきた言葉ですから、その内部に時代を垂直的な深みへ超えた力を持っているのです。しかしまた、それと同時にこれらの言葉は、あまりにも人手に渡り過ぎて手垢にまみれてしまって、人間的な臭みを帯びているということがあります。これは、これらの言葉が悪いのではなくて、手垢にまみれさせた人間の方が悪いのでしょう。ちょうど、お札が人から人へ渡ってゆくうちにぼろぼろになってしまうように、本願とかお浄土という尊い言葉も人間の手垢にまみれてしまって、単なる概念や記号に近くなり、その言葉のなかにこもっている本当の命というものが伝わりにくくなっています。
 それにも関わらず、偉大な宗教家が語る言葉には、伝統の真理を生き返らせる力があります。蓮如上人がお説教されたら、親鸞聖人の言葉が数百年の時を超えて、もう一度生き返ったのです。この『御文章』の言葉もそんな強い響きを持った言葉です。阿弥陀さまが教えてくださっている言葉です。ですからこのとおりにすることが大事なのです。
 それでは、「心を静め、眠りを覚ましてねんごろに」一体、何を聴聞するのでしょうか。いろいろなことを聞くのではありません。お説教の言葉をひとつも聞き漏らすまいとして聞くのではなくて、ただひとつのことを聞くのです。それは、「お前の往生は心配ない」という阿弥陀さまの言葉をそのままに聞くことです。一体どんな心になり、どのように阿弥陀さまをたのめばよいのですかという問いに対して、上人は「なにのやうもいらず」(『御文章』第五帖第七通、『註釈版聖典』一一九四頁)たのめばよいのだと教えておられます。阿弥陀さまの間違いのない言葉を聞くことが真の仏法聴聞というものです。この言葉は、人間が阿弥陀さまについて言っている言葉ではなく、阿弥陀さまが直接に私たちに言われている言葉なのです。疑いと信心との違いはここにあります。人間が言っていると思って聞いている間は疑いです。仏法とはいかなる人間の言葉でもなく、阿弥陀さまがじきじきに私たちにおっしゃっている言葉だと知らされた時、初めて信心と言えるのです
【永遠と今 浄土和讃を読む 上 大峯 顯 本願寺出版 P230〜P233より】



内容は大前提としまして、以下のような文章は非常に参考になります。
蓮如上人の言葉は、教義という電線に信心の電流が通った言葉ですから、それが人びとの心をとらえ感電したのだと思います」
「本願も往生も浄土も、浄土真宗の根本語です。こういう言葉は今日まで何百年も生き残ってきた言葉ですから、その内部に時代を垂直的な深みへ超えた力を持っているのです」
哲学者であり、詩人でもある大峯師ならではの表現だと思います。奥深さを感じますね。