手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

受身に感ずるこころ

 およそ信仰の心は物事を受身に感ずる心である。われわれのこの「生」をも何ものかから受けたものとして意識する。文字通りに「生まれた」のである。生まれんと欲してうまれたのではない。われわれの血液の運行も、心臓の鼓動も、胃腸の消化もわれわれの意志によって行われるのではない。
 そこでひとたび救済の自覚を持つと、われわれの気づかなかった過去の生活行程がわれわれの救いのための過程であったと感じられて来るのだ。
 父母の死、家運の没落、同胞の薄倖(はっこう)、出家得度、長い修行と懐疑、苦悩の果ての日参、法然との遭蓬、―それらが皆自分のたましいの救いのために何者かから計画されていたのだと感ずる、「弥陀のはからひにはかられて」そうなったのだという気がする。それは自分の足下から、生まれる因縁から、根こそぎ、徹底的に計画されていて、それから逃げ出そうにも逃げられない事は、ちょうどあの孫悟空が走りに走った揚句、見て来た標柱が実は仏陀の掌(てのひら)の指であったと言うように、われわれは弥陀の善巧方便の中で動いているので、結局、弘誓の船の中での出来事に過ぎない。転んでも、起きてもみ舟の中である。それが五劫の思惟によって立てられた善巧方便であって、人智の分別の達し得る際ではない。釈尊の出世も、諸賢聖の説法も、経論も、この世の悪得失も皆自分を無始以来の罪業に目覚めさして、光明の大海に救い出さんための、大慈大悲のはからいである。そしてそのはからいは「救ってやりたい」との本願からでたものに外ならない。
法然親鸞の信仰(下) 倉田 百三 講談社学術文庫 P33、P34より】



南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせて頂きますと、今まで生きてきたいろいろな出来事ひとつひとつが、すべて「阿弥陀さまのおはからい」に、はかられて生かされてきたのだな〜と思わずにはおれません。ありがたいことです。
ここで「孫悟空の話」や「弘誓の船の中での出来事に過ぎない」と述べられていますが、全くその通りだと思います。わたしたちは、大慈大悲のおはからいの中で生かされているのです。今日も、なまんだぶつ。



切手西遊記
釈迦如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、五行山に封印してしまった。