手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

願生心 2

 「ただ南無阿弥陀仏と申して疑ひなく往生するぞと思ひとる」という事は、これはそう出来さえすればなるべく別の仔細はない事であるが、そう思いとることが普通の心境では出来ないわけである。
 つまり阿弥陀という仏が実在していると思えなければ、それを恃(たの)む気にはなれないからである。しかしその実在を証拠だてる事が出来るかと言えばその科学的方法はないと言わねばならぬ。単に西方の浄土という事だけでも地球が自転している以上その西方という方向さえも定められない。これは西方極楽浄土天文学的存在や、弥陀仏の歴史的存在というようなものとは源を別にした信仰の世界での事実であってその世界においては西方の浄土と阿弥陀仏との責任は厳として疑う事は出来ないのである。
 詮ずるところこの西方の浄土や、阿弥陀仏が必要でないような心の状態では浄土門の信仰というものは起らないわけである。前にいったような苦しい辛い世界から境涯的に救われて、楽な浄い世界に生まれたいと本当に願い求めるのでなければ阿弥陀仏も極楽も信じられるわけはなく、またその必要もないわけである。
法然親鸞の信仰(上)倉田百三  講談社学術文庫 P118、P119より】



本来、起こるはずもない「わたしは浄土に生まれたい!」と願う願生心も南無阿弥陀仏のおはたきなのですね。そういう願いが起こっているということは、南無阿弥陀仏のおはたらきが着実に届いている証拠ともいえますね。別な言葉でいえば、着実にお育てにあずかっているということです。まことにありがたいことです。