手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

助けてもらっている事実の感得

 人間は信心というと何か確証が欲しいと思うのですが、こちらがはっきりした確証を得て安心することはまずありません。こちらの確証を欲しがる心を主にしてはなりません。こちらの心がどうなる、こうなるというところに執着するのではなく、宇宙自然の親様の歩みに任せるのです。こちらを主にせず、確証も求めないとすると何とも頼りない話ですが、その頼りないままで安心するのです。つまりすべて親様に任せるのです。


 源左の言葉では
「親様の仕事がわかって安心して参れるこたあないだけのう」 
となりますし、また
「安心できいでも、お助けは間違いないけんのう。それで安心しなはれ。 こっちゃ忘れても親さんは忘れなさらんからのう」
ということになります。
「助けてもらってあることを聞かしてもらうだけだがやあ。こちらがハイと返事ひとつするだけに親さんが仕上げて下されてあるでのう」
これも源左の言う通りです。
 ですから源左は、こうなったが信心、ああなったが信心ということを言ったことがなかったと親しい同行が語っています。
妙好人を語る 楠 恭 NHK出版P173〜P174より】



阿弥陀さんに、心底まかせきっている」ことが、この源左さんの言葉から、ありありと伺われますね。