手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏のいのちと私のいのち

 私の命は私の所有物ではありません。大事にしなければなりません。自分のものだから大事にするのではありません。道元禅師は『この生死は、(すなわち)仏の御いのちなり』と仰いました。仏さまの命を頂いて生きている、私の身体も心も全部生かしているのは私の命ではなく、仏のいのち、(つまり)仏さまです。これは大乗仏教です。
 キリスト教では、命は神様が作ったというでしょうが、大乗仏教では、命は、仏さま自身です。南無不可思議光如来。帰命尽十方無礙光如来。あるいは、「帰命無量寿如来」と正信偈の最初にありますが、「無量寿如来」とは無限の命、「帰命」とはまかせます、ということです。
わたしは、無限の命にまかせてこの人生を生きます。それを信心というのです。
 「死んでからお浄土に往きますよ!」というのは信心ではありません。そうであれば、この世に仏さまはいないということです。こうなったら、渡る世間は鬼ばかりです。用心して生きなければなりません。
 この世の中に来ない仏さまは無力です。極楽浄土へ往かないことにはお会いできないような仏さまは、本当の力はありません。本当に力に溢れている仏さまは、この娑婆世界の真っ只中にあらわれてくる、そのあらわれた姿が南無阿弥陀仏です。
 南無阿弥陀仏を称え、南無阿弥陀仏と一緒に、南無阿弥陀仏の中で生きている人は、なにも心配はありません。死ぬだけで仏だからです。死ねばいいね。簡単でしょ。死ぬだけで仏さん。
【第24回中原寺文化講演会(2012.10.20) 大峯 顕 師より】



阿弥陀さまからご信心を賜った人、
つまり、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付いた(気付かされた)人は、
「死ねばいいね。簡単でしょ。死ぬだけで仏さん。」の身にさせて頂けるのです。
そこに、安心があります。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏