手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信 心

信心のことは「お助け」とも申します。
如来様に助けていただくことが間違いないと知らされることは自覚と呼んでもよいのでありますが、この自覚は自分で主観的にそう思っているという自己意識のことじゃありません。
「たすけてもらえると私は思っています」では本当の信心じゃないのです。
私が思っているんじゃなくて、必ず助けると言って下さる如来様の言葉が私に聞こえたということが、信心です。
【即身成仏と信心決定『歎異抄』第十五条 大峯 顕 百華苑 P4,5より】



ここでも言われていますように、一般的に、自覚という表現は自分で主観的にそう思っているという自己意識のことをいうように思います。
ですので、信心を語るうえで、「自覚する」という言葉は誤解を招きかねない表現だと思います。どうしても自覚という言葉を使う場合は、「自覚させられる」という表現がよいと思います。
他人に伝えるときには、「知らされた」とか「分からせて頂いた」という表現の方が、より分かり易いと思います。
あくまでも主体は、阿弥陀さまなのですから。


最後に、『聞こえたままが信心』なのです。


【自覚】[名](スル)
1 自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。「―が足りない」「体力の衰えを―する」
2 仏語。自ら迷いを断って悟りを開くこと。⇔覚他(かくた)。
※国語辞書 - goo辞書より