手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

善知識

ここで最も問題とすべきことは、師(知識・善知識)と弟子(門弟・門入・門徒・信徒)との関係である。浄土真宗の信心は自己の抜き難い自己中心性や罪悪性に絶望し、自己の力による解脱の道に挫折した個人と、そのような人が救われなければ自分は仏に成らないと誓った如来との間の関係のあり方である。
ここでは救済するのは如来であり、如来の本願であって、師・知識・僧侶ではない。親鸞は自分は弟子を一人ももたないと言った。彼にとって門弟はすべて御同行・御同朋であった。師の役割は、如来の願いを弟子たちに正しく伝えることにあって、それ以外の何ものでもなかった。
覚如にとっても、蓮如にとってもまたそうであった。彼らにおいて師もまた一箇の信仰の道を歩く凡夫であり、なんらのカリスマ性をもつべきものではなかった。
【浄土仏教の思想 12 蓮如 源了圓 P210より】


【手品師コメント】
善知識の役割は、「阿弥陀仏の本願」を正しく伝えることです。
自分にカリスマ性を抱かせているのであれば、善知識どころか悪知識です。
善知識と教祖さまの違いは明らかです。