手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

一切衆生悉有仏性

聖人は『唯信鈔文意』に、


仏性すなわち如来なり。この如来微塵世界に満ち満ちてまします。すなわち一切群生海の心に満ちたまえるなり、草木国土ことごとくみな成仏すと説けり。この一切有情の心に方便法身誓願信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。


と述べて、たまわりたる信心こそ仏性であるという「信心仏性」の義を明らかにしてくださいました。まさに聖人の浄土真宗においては、「生きとし生けるものは、本願の法によってひとしく救われ得る存在」と知らしめてくださるのが、「一切衆生悉有仏性」のおこころであり、聖人の「人間観」の原点ではないかと感佩(かんぱい)いたします。
浄土真宗入門 日野振作 永田文昌堂  P141より】
※感佩(かんぱい) 深く心に感じて忘れないこと



『仏性すなわち如来なり。この如来微塵世界に満ち満ちてまします。すなわち一切群生海の心に満ちたまえるなり』
「満ち満ちてまします。満ちたまえるなり」
すでに、ひとりひとり、南無阿弥陀仏につつまれているのですね。
つつまれている、という表現もまだ甘いかもしれません。目に見えない細胞の中の中まで、南無阿弥陀仏が満ち満ちている、といった方がよいと思います。
しかし、南無阿弥陀仏につつまれている、南無阿弥陀仏に満ち満ちている、といっても、その南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂かねば意味がありません。
蓮如上人の
「宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなもの」(御文章4帖目第3通)というお言葉が浮かんできました。