手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

歎異抄(たんにしょう)

 

 「無宗教」を自認する人の多くは、「創唱宗教」に対して構えた姿勢でいる、いわば「創唱宗教嫌い」です。その背景には、オウム真理教などの影響により、特定の宗教や宗派に経済的に搾取(さくしゅ)されたくない、また自分の考えを揺さぶられたり束縛されたりしたくない気持ちがあると思います。

 今の自分の考え方は、いろいろ問題があるかもしれないけれど、自分なりに人生を歩んでいる。だから今の人生観でいいのだ、十分なのだ。そのような意識が、「無宗教」の人の姿勢に隠れているように思います。

 しかし、それは非常に消極的な姿勢ではないでしょうか。自分の身の安全を図るために、危険なものに触れない。それはそれで有益に思えますが、宗教の本質を知ったうえでの選択ではありません。「宗教とは何か」という問題を突き詰めて考える機会を、明治以降、日本人は一度も与えられてこなかったと言えるでしょう。ですから、「創唱宗教」の教える救済思想と向き合う経験が不足しているのです。

 平生であれば、「創唱宗教嫌い」でも、自分なりの考えで人生に意味を見いだすことはできるでしょう。たとえば、子どもの成長に合わせて自分たち夫婦の人生設計をする。仕事で「次はこういうことをやってみよう」と将来の展望を広げる。年老いた親を介護しながら、どのように対話するかを考える。私たちは、そういった「小さな物語」をつなぎ合わせて、人生の意味を自分なりに確かめているのです。

 しかし、人生には思わぬ出来事が、まま起こります。危機的な状況に陥(おちい)り、「小さな物語」が破綻(はたん)すると、人生観が揺さぶられて、何を頼りに生きていけばいいかわからなくなる。自分だけの考えは役に立たないと痛感せざるを得ないのです。 【略】

 そのとき、最も頼りにできるものは何か、と改めて考えてみても、手がかりがありません。「自然宗教」は、危機的な状況に対してはほとんど無力です。穏やかな暮らしの中では、ご先祖に手を合わせることで安心感が得られるでしょう。しかし、ひどい状況の中では、「自然宗教」的な安心のもち方だけでは解決しないことが多いのです。

 そういうときにどうすればいいか。「創唱宗教」は、いろいろな方法を語っています。宗教団体に所属している人は、それを知ることができますが、教団に入らない「無宗教」の人にとっては、やはり手がかりがありません。その役割を果たしてくれるのが宗教的古典だと思いますが、とりわけ『歎異抄』だと、私は言いたいのです。

【歎異抄にであう 無宗教からの扉 阿満 利麿 NHK出版 P11〜P13より】

創唱宗教:教祖、教団、プロの宗教家がいる宗教

自然宗教:地域や家庭で代々伝承されてきた宗教心を伴う習慣など

 

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なによりも「私の生死問題(の解決)」です。より積極的に、「私の生死問題」に介入していきたい、ものです。というよりは、介入すべき、です〜。『歎異抄』に触れることで、その(私の生死問題解決の)ヒントといいますか、「気づき」や「発見」、あるいは「(問題解決の)入り口」があるかもしれません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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お釈迦さま(釈尊)の功績

 

衣食住が満たされることだけで人生が豊かになるのではないという考え方は、仏教の根幹に関わります。仏教は、王子であった釈尊が、地位も名誉も財産もすべて捨てて出家したことに始まります。釈尊が出家したのは、地位や名誉や財産など、私たちが求めて止まないものが、移ろい変わっていくものであり、老・病・死の前では本当に頼りとなるものではないと気付かれたからです。ですから、釈尊が課題とされたのは、老・病・死を前にしても私を支えるものは何かという問題なのです。釈尊が修行の先に発見したその「何か」とは、変わりゆく私を言い当てる変わらない真実、つまり、縁起の理法でした。釈尊は、その真理に目覚めたこと(悟り)で、安らかな生き方を手にされ、自分と同じように縁起の理法に目覚めることを人々に勧められたのです。

【阿弥陀経を読む 三浦真証 仏教教育出版 P32より】

 

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お釈迦さま(釈尊)が課題とされたものは、老・病・死を前にしても私を支えるものは何かという問題なのです。」とあります。お釈迦さまの課題は、我々の課題であり、「私の課題」でもあります。幸い、お釈迦さまは、その課題を解決されました。つまり、お釈迦さまが説かれた仏教を聞くことは、「私の課題」の解決になります。さらに掘り下げまして、浄土真宗の教えに注目してほしい、と個人的に思っています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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念仏のみぞまこと

 

 親鸞聖人にとって、変わりゆく私をどこまでも支えるものは何であったのか。それは「弥陀の本願」です。親鸞聖人は『歎異抄』の中で、

 「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世 界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

と言われました。世間のことは、私を含めてすべてのことが移ろい変わっていきます。しかし、無常を生きる私をそのまま目当てとする本願は変わりません。その本願が躍動しているのが、私の口から出ている念仏です。だから親鸞聖人は、「念仏のみぞまこと」と言われたのです。変わりゆく私を支え続ける本願のはたらきを喜んでおられるのが「念仏のみぞまこと」の意味なのです。

 いくら衣食住が揃ったとしても、変わりゆく私を支える変わらないものに出遇えなければ、私たちのいのちは迷いのいのちとなってしまうのではないでしょうか。

【阿弥陀経を読む 生きる道をたずねて 三浦真証 仏教教育出版 P33より】

 

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「念仏のみぞまこと」力強い言葉です。日々変わりゆく私に、変わることなく南無阿弥陀仏のはたらきは、はたらき続けています。そのはたらきに気付かされるか否か、とても大事なところです。南無阿弥陀仏(のはたらき)を知らされますと、人生観が変わります。人生観が変わっても、日頃の悩みや苦しみが無くなるわけではありません。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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手本でなく見本というスタンス

 

 明治時代の金沢に、高光大船(たかみつだいせん)という人がいました。清沢満之(きよざわまんし)という北陸の浄土真宗の重鎮の弟子のひとりです。清沢満之は、明治の宗門改革の立役者でした。

 高光大船は、講演の引く手あまたでしてが、いくら頼まれても行かなかったそうです。あるとき、どうしても断りきれなくなり、そのときにこう言ったといいます。「わしは人の手本にはなれんが、見本くらいにはなれるだろうから、引き受けましょう」

 手本と見本の違いが面白い。

 手本は、やはり、優れた立派なものということです。「手本は二宮金次郎」なんていう歌が昔ありましたが、手本というのは仰ぐものです。

 一方、見本というのは、食堂にメニューのサンプルが並んでいる、あれが見本です。どれを選ぼうかなという具合に、上から見下ろされるものです。人の目の下にあって、選択の余地があります。

 高村大船は、「手本にはなれんが、見本にはなれる」と言いました。

 あなたの参考にはなれるかどうかはわかりませんが、ぼくのことを話しましょう、ということなのです。

 強い言葉でアドバイスしないのは、かえって冷たいやりかただととらえられるかもしれません。人は時に強い言葉に励まされることがある、というのもわかっています。

 しかし、ぼくには「こうしないとだめじゃないか、なんてよく言うよ」という思いがあるのです。

【捨てない生き方 五木寛之 マガジンハウス新書 P 81、P82より】

 

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 頭ごなしに、こうであれ!と押し付けると、かえって反発を食らいます。妻や娘に、浄土真宗の教え、聞かないか!と強制しても、なかなか聞くものではありません(笑)。(妻から)あんたの考え偏っているわ!と反撃にあいます(笑)。ですので、かなり以前から、ことあることに、「南無阿弥陀仏、ええなぁ〜、やっぱり南無阿弥陀仏だわ〜」と、語りかけるように話しています(笑)。

 あと、ここでいわれている「見本というスタンス」いいですね。押し付けがましさがありませんから。私もこのスタンスでいきます〜。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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「浄土教の思想」に注目しませんか⁉️

 

 われわれは誰でも、本当は、何一つ頼りになるものを持たないところで生きています。家族をたよりにしているといっても、家族はいつ死ぬかもしれません。会社や組織を頼みにしているといっても、そういう状態は永続するとはかぎりません。私たちの財産や地位や名誉を、私たちは死の彼方にまで持っていくことは不可能でしょう。いや、日ごろ私たちが最後の頼りにしている、この私たちの個体の生命それ自体さえ、いつ私たちのもとを立ち去るかもしれないのです。私たちの存在の根底には、安心して足をつける何ものもありません。そこには一つの深淵(しんえん)が開かれています。私たちの人生は、そういう底無き深淵の上に成り立っているのです。それが、私たちが宇宙の中にある、ということの実相です。

 宗教とは、そういう人間存在の根本的な不安、人間がそれを忘れていようが否認しようが、変わりない事実から生まれてくる底知れない不安から脱却する途(みち)だと言えます。だから、宗教を持っても持たなくても各人の自由だ、というようなことは決して言えないことになります。いかなる人間も、宇宙の中に吸いこまれていく不安な状況をいかにして脱け出せるか、という根本的な課題を背負って生きているわけです。それは個人の主観的な思いを超えた生命そのものの要求であります。その生命の要求に答える宗教なくして、人間存在は真実には人間存在たり得ないのです。歴史上にあらわれた世界宗教はみな、このような人間存在の根本的な解決の途を、それぞれの教義の言葉で説いているわけです。なかでも、大乗仏教とくに浄土教の思想には、それについての深い洞察が見られると思います。

【宗教への招待 大峯 顯 本願寺 P13、P14より】

 

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ここでもありますように、

世界宗教は、「人間存在の根本的な解決の途(みち)」において、それぞれの教義の言葉で説いています。その数ある(世界)宗教の中でも、大乗仏教とりわけ、浄土教の思想には、「人間存在の根本的な解決の途」について、深い洞察が見られると思う、と結んでいます。私もそう思います。もっと掘り下げまして、浄土教の思想の中でも「浄土真宗の教え」に、より注目してほしい、と思います。そこに発見といいますか、気付きがあるかもしれません〜。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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如来さまの言葉を聞くこととは

 

 昨年末私の近くのご門徒が、何人かの団体でバスでご本山へ念仏奉仕団に行った時のことです。あるお婆さんがバスに乗り遅れたのです。休憩の時にトイレに行って帰ってきたらバスが出てしまっていました。実際はバスは待っていたのですが、お婆さんは置いてきぼりになったと思ったのです。その後バスはご本山から金閣寺へ行くことになっていたので、そこでお婆さんは、これは私がほおっておかれたと思って、タクシーに乗って先まわりして金閣寺に行ったのです。ところが、バスの方はお婆さんが一人足らないものだから1時間近く待っていたのです。いくら待っても来ないのでとうとうバスは発車しましたが、金閣寺へまわる時間がなく本山だけで帰ってきたということです。一方お婆さんは、金閣寺へ行ったけれども誰も来ていないからとうとうお寺に電話をかけてこられて、一部始終がわかったのです。お婆さんは最初の場所で見つけてもらおうとジッとしておればよかったのですね。「そのまま、そのまま」と如来さまがおっしゃるように、そのままにしておれば助かるのに、余計なはからいをするものだから、結局如来さまに遇えなくなる。お婆さんはそこで待っておればよかったのです。私は西も東もわかりませんから、ここでつかまえてもらうまで待ちましょう。そうしたら必ず見つけてくれて一緒にご本山も金閣寺も参れたのに、自分だけタクシーに行ったりするからだめになってしまった。こざかしいはからいをするからだめなのです。

 仏さまに任せるということは、いっさいはからいをしないということです。お浄土へタクシーで行こうなんて思うとだめなのです。お浄土へは南無阿弥陀仏の名号というたのもしい如来さまの車で行くのです。その如来さまの車に乗ったら最後、私は眠っていてもお浄土へついてしまいます。有難いことです。如来さまを信じたら一人でに自然にお浄土へ行く。如来さまを信じるとはどういうことかというと、如来さまを偉いと思っていることではありません。如来さまがこれに乗れと言われる車に実際に乗ることを信というのです。信ずるというのは乗託(じょうたく)するということです。如来さまの大きな頼もしい本願力の船に乗るということです。そしたらひとりでにお浄土に行ってしまいます。気がついたらもうお浄土です。どのルートを通ってきたのか凡夫にはいっさいわかりませんが、とにかくお浄土に来てしまった。行けないはずの私がお浄土へ来てしまうわけですからこんな不思議はありません。だから願力不思議の信心、名号不思議の信心と言われるのです。世にも不思議なことが如来さまの力で起こるのです。その信心が一番大事だと親鸞聖人も蓮如上人も教えくださっています。

 それにしても、そういう信心はお釈迦さまと阿弥陀さまのはからいによってしか起こらないというなら、一体私たちはどうしたらよいのでしょうか。どうもこうもしようがないと思うかもしれませんが、そうではなく、仏法を聴聞するということが大切です。仏さまのおはからいだから何をしていてもはからいにつかまる、そういうことはないのです。時節到来ということは何もしないことではなく、用心をもして、その上で事が成就することを言うのだと蓮如上人が『御一代記聞書』の中で教えておられるとおりです。仏法聴聞ということがないと、如来さまのはからいには決して遇えません。だからお寺に参って、仏法を説いてくださる言葉を聞かなければだめなのです。聞くのはやはり自分が聞こうとしなければどうにもなりません。聞こえるのは自然に聞こえてくるのですが、聞こうという気がなければ聞こえないのです。この頃は聞こうとする人が少なくなっています。聞こうとしたからといって聞こえるものではないですが、とにかく聞こうという気がなければ絶対に聞こえないことは明らかです。聞こうとしていろいろやっているうちに自然に聞こえてくる。聞こうとすることは自分の力かもしれませんが、ご住職が「聞け」と言っているから聞いているということもあるかもしれませんが、やはりそれは聞こうという心が起こっているのです。それも実は如来のはからいであって聞こうという気を如来さまが起こしてくださっているのです。それは本当から言えばそうですけれども、とにかく聞こうという気持ちがないとだめです。

 そうして、聞いているうちに、聞こうというはからいが段々と捨てられていくのでありましょう。こういう経験のある方はいらっしゃるだろうと思います。いつとはなしに聞こえてきた。初めはご講師の話しか聞こえなかった。あの人が言っていることだと思っていた。今日のご講師さんは要領よくわかりやすい話をしたとか、今日はわけのわからないことを言われたとか、長々と話をした、初めはそんなふうに聞いているのです。これでは人間の言葉が聞こえているのであって、如来さまの言葉は聞こえていないのです。ところが、そういうお話の中からふと、如来さまの言葉が聞こえてくる。「お前を救うぞ」と言っている如来さまの直々の言葉が聞こえてきた。これが聞こえたということです。聞こうとしている内に、いつか聞こえてくる言葉がある。それはご講師の言葉でなく、如来さまの言葉なのです。

【宗教への招待 大峯 顯 本願寺 P227〜P231より】

 

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「如来さまの言葉(南無阿弥陀仏)を聞く」ことについて、とてもわかりやすい表現で解説されています。また、「仏法は聴聞に極まる」という蓮如上人のお言葉をしっかり受け止めたいものです。「棚から牡丹餅」的発想は要注意です(笑)。この文章を読んでいまして、このブログを始めた頃の「オープンカー(下記リンク)」を思い出しました。「南無阿弥陀仏」は色褪せることはありません。言うまでもなく当たり前のことですが。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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言葉に対する仏教の三つの態度

 

 仏教においても「仏説」「仏語」「真語」「如実の言」などの言葉があるように、言葉は仏法の真理があらわれる場所として考えられている。しかし仏教の場合は、大きくいって言葉に対する三つの異なった態度が見られるようである。第一は、仏典の概念語を解読してゆくことによって、概念を超えた仏法の真理を体得し、それによって仏に成ろうとする態度である。天台宗、華厳宗、法相宗、真言宗などの諸宗派がこれに属する。概念語を超えた仏法の世界へ、あくまでも概念語の階段を上って到達しようとするのである。しかし、仏教には第二に、はじめから言語の有効性に対する批判的な態度がある。これは釈尊が、言葉による空しい論議の遊び、戯論(けろん)に対して、いわゆる「仏陀の沈黙」をもって答えたことにはじまる。大乗仏教の「空」の哲学者 龍樹(りゅうじゅ:150-250頃)の主著『中論(ちゅうろん)』にも、小乗仏教の煩雑な形而上学的論議に対する、この言語批判が明らかにあらわれている。しかし、言語に対する否定的な態度を最も端的に示しているのは、中国で発達した禅仏教(仏心宗)の「不立文字(ふりゅうもんじ)」「直指人心(じきしにんしん)」という立場である。禅仏教は、言葉は決して真理への通路ではなく、かえって邪魔になるという立場に立っている。言語はたんに指を指す指、たんなる記号であり、月そのものを直指する(直接に経験する)には、すべての言語表現を突破しなくてはならない。言語の次元を超える経験においてはじめて真理は明らかになるというのが禅仏教の立場である。

 しかしながら、このような禅仏教の「不立文字」という実在経験は、それがいったん遂行された後では、反対にさまざまな言語表現をとることになる。むしろ、禅仏教は多弁過ぎるくらいの言語表現をもっているとさえいえる。道元の『正法眼蔵』九十五巻をはじめとする禅仏教の多量の文献はその証拠である。そうすると、仏教の本来の目的は、言葉に対する素朴な信頼にあるものでもなく、逆に言葉そのものへの否定にあるのでもなく、言葉に対して正しい態度をとることを教えるところにあるように思われる。

 しかし、仏教には言葉との関係においてさらに第三の立場がある。それは『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』にもとづく浄土教であって、ここでは言葉の役割は実に最大限の射程を獲得しているのである。この経は、一切の生きとし生けるもの(衆生)を救おうという阿弥陀如来の本願を説いているが、その本願とは自らが南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)〈言葉〉となって衆生を救おうという本願である。それゆえ、阿弥陀如来の名号というときの「の」は、二つのものをつなぐ所有格ではなく、如来が名号であり、名号が如来であるという不一不二の独特の関係をいうのである。衆生に向かって自分自身を告げる名号以外に如来は存在しないのである。これはユダヤ・キリスト教の「神の言葉」や『仏説無量寿経』以外の大乗経典における言葉とはまったく異なった独特な言葉の世界であるといわなくてはならない。

 ユダヤ教・キリスト教において「神の言葉」といわれるときには、神そのものと言葉とはまったく一つというわけではない。神が人間に何ごとかを語る言葉だからである。しかるに、如来の名号は、如来が人間に何かを語ることではなく、如来それ自身を語ること、自己自身を名乗っていることである。如来という形なきものが言葉となって、人間に語りかけ、人間存在を肯定しているということが、浄土教が明らかににした言葉の最も深い秘密である。たしかに人間生活の表面においては、言葉は人間が自由に使う道具のように見える。しかし、人間生活のもっと深みへ行くと言葉はもはやそういうものではない。そこでは、人間存在は実は人間以上の次元から発源する言葉によって支えられているのである。言葉はその最後の深みにおいては、人間以上の世界から人間世界への通路である。

 

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 もう10年くらい前になるでしょうか。大峯先生と直接お話しする機会に恵まれました。その折、当時、先生の出された書籍で、特にオススメはなんですか?の質問に対して、今回紹介しました「宗教の招待 =宗教の再生のために=」と答えられました。以前もこのブログで、そのような件(くだり)の投稿(下記リンクあり)をしました。

 では、本題です。今回、提示しました文章は、「言葉に対する仏教の三つの態度」について、それぞれ、わかりやすく解説されています。文章最後の部分(青字/赤字部分)を言い換えますと、以下のようになるでしょう。

人間存在は実は「南無阿弥陀仏」によって支えられているのである。「南無阿弥陀仏」はその最後の深みにおいては、人間以上の世界から人間世界への通路である。

 「南無阿弥陀仏」という言葉は、単なる記号などではありません。「阿弥陀さまの命そのもの」なのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

【宗教への招待 =宗教の再生のために= 大峯 顯 放送大学教育振興会 P 81〜P83より】

 

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