手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

考えよう

 

 新型コロナウイルスが怖い、その先に、死があるからです。そこまで掘り下げて考えている人は一体どれくらいいるでしょうか。潜在的な死への恐怖は、差別発言やデマの拡散といったもので発散されているのでしょう。新型コロナウイルスの猛威は、人の醜い部分を浮き彫りにさせています。

 こんな状況だからこそ、わたしが死ぬ、という「私の生死問題」について、今一度考えてみるのもよいのではないでしょうか。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

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心は元気でいたい   

 

3歳前に脊髄性小児マヒになった。以来、不自由な身体を引きずって生きてきた。松葉づえの使用は70年以上になり、老いては車椅子の力を借りて12年以上になる。けがと病気との闘いが続き、これまでに43回も入院。手術も数多くしたが、何とか乗り越えてきた。同じ重度の身体障害者ながら懸命に支えてくれる妻に感謝したい。今は、デイサービスに通いながら、病院への通院も週3日と続いている。何はともあれ、心は元気いようと努めている。 〈さいたま市 無職 市川昭男 81〉

 【読売新聞(よみほっと:わたしの医見:心は元気でいたい)令和3年1月24日(日)付  より】

 

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今朝の新聞を読んでいまして、以下のようなことを思いました。

心は元気」という言葉、力が湧いてきます。日々、肉体はおとろえ、最後は、自分の肉体(身体)とも別れねばなりません。『南無阿弥陀仏』が(心に)響き渡っている生活、まさしく「心は元気」なのです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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ねじ曲げられた真実

 

 米ホワイトハウスで開かれた結婚式は過去に18回ある。ニクソン大統領の長女の式もその一つ。ニューヨーク・タイムズ紙は1971年6月13日1面で、その様子を伝えている。

 大統領は朝、起きるとまず、この写真付きの記事を読んだ。実はその横に「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれるベトナム機密文書の大スクープが載っていた。彼はこれがその後、政府を揺るがそうとは思いもしなかったらしい。

 米国はベトナム戦争の泥沼にはまり、その戦況を隠していた。スクープは国防総省の文書で、米軍が勝利に疑念を持ちながらも戦線を拡大していく実相を明らかにしていた。その記事を書いたニール・シーハンさんが先週、84年の生涯を閉じた。

 酪農を営むアイルランド系移民の子に生まれ、幼い頃、母が知人からもらってくる本を読みふけった。ハーバード大学に入っても、彼の関心は詩や小説にあり、政治や戦争への興味は薄かった。62年から米通信社記者としてベトナムを取材し、米軍発表のうそに気付く。それが、ベトナムに関心を持つ動機となった。

 私は2010年8月、ワシントンで彼に話を聞いている。約束の時刻に自宅を訪ねると、彼はわざわざ玄関先で待ってくれていた。穏やかな親日家で、部屋には天井まで本が並んでいた。

 著名ジャーナリストのデイビッド・ハルバースタム氏を生涯の友とした彼は、ベトナム戦争取材について、「戦闘の勝ち負けやワシントンの政治について、デイビッドと話したことは少なかった。米軍発表のうそについてばかり論争していたように思うなあ」と懐かしがった。

 機密文書報道の翌年、フリーとなった彼はベトナムを題材に本の執筆に入り、16年をかけて名作「輝ける嘘(うそ)」を書いた。その取材を通してたどり着いた結論は、「権力はうそをつく」。「嫌らしいことに、真実に紛れ込むようにうそが入る。語っている本人さえ、真実と思い込み、うそと気付いたとき、その事実を隠すんだ」

 トランプ大統領は4年間、「真実ではない」もしくは、「根拠の薄い」ことをまことしやかに発信し続けた。会員制交流サイト(SNS)全盛の今、個々が虚と実の判断に向き合う時代である。

 19世紀に生まれた仏小説家、アンドレ・ジッドは自伝にこう書いている。「最も嫌らしいうそは、真実に近い虚言だ」。トランプ大統領の手法について、シーハンさんにじっくりと話を聞いてみたかった。(論説委員)

【毎日新聞(東京朝刊)2021年1月15日付  金言(kin-gon)嫌らしいことに  小倉孝保より】

 

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   この新聞記事を読んでいまして、以下のようなことを思いました。

  「嫌らしいことに、真実に紛れ込むようにうそが入る。語っている本人さえ、真実と思い込み、うそと気付いたとき、その事実を隠すんだ」

とりわけ、この文章の『真実に紛れ込むようにうそが入る。』というところは、受け手にとって悲劇しかありません。先のベトナム戦争報道やトランプ氏発信の件(くだり)もその一例です。

  同じことは、宗教の分野でもいえるのではないでしょうか。私の生死問題を解決する上で、大前提の真実がウソで汚染されていては、どうにもなりません。

  「(ウソによって)真実が、巧妙にねじ曲げられてしまう」ことは、とてもおそろしいことです。また、その巧妙さ故に、ウソを見抜くことは至難の業です。(ねじ曲げられた真実に)洗脳されてしまうこともあるでしょう。

 浄土真宗という看板を掲げているにもかかわらず、本来とは全く違う教えになってしまっている現状もあります。とても悲しいことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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仏さまの まねごと

 

  他人の喜びを私の喜びとし、他人の悲しみを私の悲しみとするのが仏さまです。まずはそこからかけ離れた自分に気づくことで、至らない私のあり方というものが気になってくるでしょう。そういう至らない私であっても、仏さまのまねごとをすることで、少しずつ自身の生き方がつくり変えられていくのです。 

 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息   (や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

(『ブッダの真理のことば 感興のことば』10頁) 

  人との関係性を「しらがみ」とみるか、「つながり」とみるかで世の中の見え方は大きく違ってきます。他人の過失を見ず、自分の行いを見つめ、整えていくことで、さまざまな人の間にあって、非難にも、また称賛にも動じずにいられるでしょう。完全にはできなくともお互いにそういう心持ちであれば、「しがらみ」は「つながり」と見えてくるに違いありません。

  そもそも人はすべてのものとの関係性の中に生きています。つながり合って生きていることのすばらしさに思いが至らないのは、大変残念なことです。

【仏の教え 大谷光淳  幻冬舎 P92、P93より】

 

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暗澹たる日々が続きます。新型コロナ禍の猛威は、差別発言など人の醜い心を浮き彫りにさせています。他人の悲しみを私の悲しみとする仏さま。とりわけ、新型コロナ禍を生きていく上で、少しでも「仏さまの まねごと」をさせていただく、ことの意義は大きいです。仏さまの教えは、実生活上の指針にもなるのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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教化

 

 「教化」とは、けっして僧侶が門徒を「教え導く」という意味ではありません。親鸞聖人において教化とは、聖人自身が如来の教化をたまわることです。したがって教化活動とは、「仏さまの教化にあずかる場を、僧侶も門徒もひとしく共有する営み(活動)」であり、ここに僧伽(さんが)という関係性が開かれてくるのです。

 ですから、一番問われているのは、この私の心身に真宗の教えが本当に響いているか否かということです。たしかな響き(自信)は、伝えよう伝えようと力まなくても、自然に伝わっていくのです(教人信)。

【法話のきほん 伊東恵深 法蔵館 P24より】

 

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まずは、私自身です。「私の生死問題」についてじっくり向き合いたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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当然を当然にうけとる

 

 曽我先生の喜寿特集号の原稿を逸早く送って下された先生、しかもその原稿が絶筆となってしまいました。73年間の永い御一生、その折々にふれて御縁を結ばせて頂いた人々と共に今更ながら先生を仰ぐばかりです(仲野良俊)

 その絶筆となった一文とは、

 「人間の生活に突然起ったり偶然現れたりすることは決して無いことである。どんな事件でも宿業の所感でないものは一つもない。

 突然とか偶然とかいう言葉があるが、そういうものはないのである。何事でも当然の事が一番賢明なことでそれ以上の工夫は無い。しかるに人間は当然を当然に受けとらないで、何か一工夫凝らすところに人間の馬鹿さ加減がある。

 弥次、喜多は風呂の底板をまくって入ったら足が熱くてついに人間の悲しさを発揮して下駄をはいて入った。当たり前にして入ればそんな事は無いので、当たり前は人間の工夫より賢明である。当然は突然でも偶然でもない必然であるから一番かしこい。その当然を肯(うなず)かれないで一工夫するところに人間の馬鹿さ加減がある。」

※一部、旧字を現代語に校正しました

【親鸞に出遇った人々(3)高光大船 師を称える P26、P27より】

 

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南無阿弥陀仏(のはたらき)を南無阿弥陀仏とうけとる。わたしの一工夫(はからい)は邪魔者なのです(笑)。当然(南無阿弥陀仏)を当然(南無阿弥陀仏)とうけとる、とてもシンプルなのですが、どうしてもわたしの思いや考えが入ってしまいます。とても簡単ですが難しい、というところでしょうか。

おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏

 

 

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お手本でなく見本

 

 清沢満之(きよさわまんし)の弟子で、加賀の念仏者として有名な高光大

船(たかみつだいせん)さんは、

「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」と言ったそうです。

 父も母も、たしかに、仰ぎ見てあこがれるような手本ではありません。しかし、ふつうの人間がどう生き、どう死ぬものなのかの見本を見せてくれました。

 それによって、私の生き方が定まったと思うと、無意識のうちに結ばれていた絆を感じざるをえません。それは、山ほどの本を読んでも、多くの偉人たちの話を聞いても、決してえられない教えだからです。

 年齢を重ねるにつれて、これまであまり意識しなかった、父や母の生き方に思いをいたすことが多くなりました。すると、自分が、父や母、祖父母、顔も知らないご先祖さまとつながっていることが実感できて、心強くなるのです。

 ですから、世のお父さんやお母さんに申しあげたいことは、「偉い父、立派な母」の姿を見せなければならない、という思いは捨てたほうがいいということです。

 それよりも、無理をせず、ぶざまな姿やみっともなさや、弱さをさらけ出して見せるほうが、大事な財産として子どもの心に残る。

【こころの相続 五木寛之 SB新書 P56、P57より】

 

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「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」という言葉、すごく気に入りました。私自身、家族をはじめ人さまのお手本となるような生き方はできません。無理です。意識してお手本を演じるより、ありのままの姿をさらけ出して生きていく方が楽です。ストレスもありません。ときには、反面教師としてみてもらうような生き方は、人間本来の姿が垣間見え、有用なサンプルとなります。仏教においても、気取ることなく、ありのままの姿で「自分の存在意義」を問うていきたい、ものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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