手品師

浄土真宗の信心を中心に綴ります

当然を当然にうけとる

 

 曽我先生の喜寿特集号の原稿を逸早く送って下された先生、しかもその原稿が絶筆となってしまいました。73年間の永い御一生、その折々にふれて御縁を結ばせて頂いた人々と共に今更ながら先生を仰ぐばかりです(仲野良俊)

 その絶筆となった一文とは、

 「人間の生活に突然起ったり偶然現れたりすることは決して無いことである。どんな事件でも宿業の所感でないものは一つもない。

 突然とか偶然とかいう言葉があるが、そういうものはないのである。何事でも当然の事が一番賢明なことでそれ以上の工夫は無い。しかるに人間は当然を当然に受けとらないで、何か一工夫凝らすところに人間の馬鹿さ加減がある。

 弥次、喜多は風呂の底板をまくって入ったら足が熱くてついに人間の悲しさを発揮して下駄をはいて入った。当たり前にして入ればそんな事は無いので、当たり前は人間の工夫より賢明である。当然は突然でも偶然でもない必然であるから一番かしこい。その当然を肯(うなず)かれないで一工夫するところに人間の馬鹿さ加減がある。」

※一部、旧字を現代語に校正しました

【親鸞に出遇った人々(3)高光大船 師を称える P26、P27より】

 

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南無阿弥陀仏(のはたらき)を南無阿弥陀仏とうけとる。わたしの一工夫(はからい)は邪魔者なのです(笑)。当然(南無阿弥陀仏)を当然(南無阿弥陀仏)とうけとる、とてもシンプルなのですが、どうしてもわたしの思いや考えが入ってしまいます。とても簡単ですが難しい、というところでしょうか。

おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏

 

 

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