清沢満之(きよさわまんし)の弟子で、加賀の念仏者として有名な高光大
船(たかみつだいせん)さんは、
「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」と言ったそうです。
父も母も、たしかに、仰ぎ見てあこがれるような手本ではありません。しかし、ふつうの人間がどう生き、どう死ぬものなのかの見本を見せてくれました。
それによって、私の生き方が定まったと思うと、無意識のうちに結ばれていた絆を感じざるをえません。それは、山ほどの本を読んでも、多くの偉人たちの話を聞いても、決してえられない教えだからです。
年齢を重ねるにつれて、これまであまり意識しなかった、父や母の生き方に思いをいたすことが多くなりました。すると、自分が、父や母、祖父母、顔も知らないご先祖さまとつながっていることが実感できて、心強くなるのです。
ですから、世のお父さんやお母さんに申しあげたいことは、「偉い父、立派な母」の姿を見せなければならない、という思いは捨てたほうがいいということです。
それよりも、無理をせず、ぶざまな姿やみっともなさや、弱さをさらけ出して見せるほうが、大事な財産として子どもの心に残る。
【こころの相続 五木寛之 SB新書 P56、P57より】
「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」という言葉、すごく気に入りました。私自身、家族をはじめ人さまのお手本となるような生き方はできません。無理です。意識してお手本を演じるより、ありのままの姿をさらけ出して生きていく方が楽です。ストレスもありません。ときには、反面教師としてみてもらうような生き方は、人間本来の姿が垣間見え、有用なサンプルとなります。仏教においても、気取ることなく、ありのままの姿で「自分の存在意義」を問うていきたい、ものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏