南無阿弥陀仏の視点からしますと、「私は生まれてこないほうが良かった」という反出生主義的な考え方はありえません。人間に生まれてこなければ、仏教は聞けませんし、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせられることはないから、です。私において、反出生主義の思想といいますか考えは、まったくもってナンセンスなのです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
東奥日報(地方紙)2020年12月24日(木)付より
南無阿弥陀仏の視点からしますと、「私は生まれてこないほうが良かった」という反出生主義的な考え方はありえません。人間に生まれてこなければ、仏教は聞けませんし、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせられることはないから、です。私において、反出生主義の思想といいますか考えは、まったくもってナンセンスなのです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
東奥日報(地方紙)2020年12月24日(木)付より
「仏(阿弥陀)さま のほうが 心配するな 私がシッカリしているから 俺に まかせとけと おっしゃってるんですよ
だから『ありがとうございます』と いいなはれ
いえなんだら それでもええわ それで ええ
まかせといたら ええんだ
それが 『まかせる』 ということや」
梯 實圓
【生きて死ぬ力 石上智康(いわがみちこう) 中央公論新社より】
阿弥陀さまに「まかせる」、ただそれだけなのでした。もう少し踏み込んで言いますと、「(阿弥陀さまに)まかせずにはおれなくなる」ということです。あくまでも、阿弥陀さまのひとりはたらきに依るからです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
思えば、いままで「当たり前」だと思って過ごしていた日常は、貴重な、「有り難い」毎日だったのではないでしょうか。また、自粛生活を経験してみて、これまで私たちがほんの少し出歩くだけで、いかに多くの人と接触し、つながりを持って暮らしていたかをお知りになったと思います。
そういう気づきこそが仏教的な視点からでてくるものです。朝起きて仕事に出かけていく。いろいろな人と交流する。休日には自由に外出できる。桜が咲けばお花見に行き、ゴールデンウィークやお盆休みを利用して故郷に帰省できる。自粛生活中にできなかったこれらのことは、本来すべてが当たり前でなく、「有り難い」ことだったのです。外出すれば路傍の花が、いまのあなたは美しく見えるでしょう。
このように、これまで当たり前と思い、なおざりとしてきたこと一つひとつを見直していく価値観の転換が、いまこそ求められます。
【令和版 仏の教え 大谷光淳 幻冬舎 P17より】
新型コロナ禍の影響で、いままで当たり前のよう出来ていたことが、できなくなっている現状をみますと、本来すべてが当たり前でなく、「有り難い」ことだった、ことに気づかされます。
阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏のはたらき」においてはいかがでしょうか。南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・わたしにはたらいています。(いま・ここで・わたしが、)そのはたらきに気づかされることは、とても有り難いことなのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
親鸞聖人は供養のために念仏したことはない、と仰っています。浄土真宗において「南無阿弥陀仏」の念仏は、私が称えるものでありますが、阿弥陀さまのはたらきが私を通して現れてくださったものだと受け止めます。
阿弥陀さまのはたらきであるお念仏を、私たちの都合によって「供養」のための「手段」として用いることはできないのです。そのことを親鸞聖人は、(先ほどの言葉に続いて)次のように仰っています。
わがちからにてはげむ善(ぜん)にても候(そうら)はばこそ、念仏を回向(えこうして父母もたすけ候はめ。
(浄土真宗聖典 註釈版 八三五頁)
【訳文】
念仏が自分の力で努める善きおこないでありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。
浄土真宗のみ教えは、人は亡くなれば、阿弥陀さまのはたらきによって浄土に往生させていただき、さとりを開き、阿弥陀さまと同じように私たちを導いてくださっているというものです。ですから、何かのため、たとえば亡くなった人のために特別に「供養」するということはありません。故人を偲びつつ、生前のご恩、また、いまは仏さまとして見守っていてくださることに感謝して念仏する中で、私たちが阿弥陀さまのみ教えを聞き、諸行無常の世の中を精一杯生きていくことこそが大事なのです。
【令和版 仏の教え 幻冬舎 大谷光淳 P99~P101より】
ここで、「人は亡くなれば」とありますが、あくまでも、『生前に阿弥陀さまから「信心」を賜わった人』ということは、おさえておかなければなりません。死んだら誰もが仏さまになるのではありません。とても誤解されやすいところです。
「信心」とは、浄土真宗辞典によりますと、「仏の教えを信じて疑わない心」とあります。換言しますと、阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」のはたらきに気付かされている、ということです。
つまり、「人は亡くなれば」の箇所を丁寧に説明しますと、「いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさている人が亡くなれば」となります。誤解がないように、肝に銘じておきたいところです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
石原吉郎は『海を流れる河』(花神社)のなかで、時間のふたとおりの数え方があると述べている。
ひとつは、一から始まってこれに、無限に一単位(年でも秒でもいいが)ずつ加えて行くやり方で、私たちはそのようにして、小刻みに未来を生きている。
もうひとつは、たとえばロケットの打ち上げの時の秒読みのように、あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一単位ずつ時間を消して行くやり方である。残り時間がゼロになったときそれが起る。未来が終わるのである。
【生きながらえる術(すべ) 鷲田清一 講談社 P242、P243より】
いま、ここで、わたしに、はたらいている南無阿弥陀仏という視点から考えますと、後者(あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一単位ずつ時間を消して行くやり方)のような人生の捉え方(数え方)は、どうなのでしょう(ゴールを設定する人生)? わたしは、前者(一から始まってこれに、無限に一単位ずつ加えて行くやり方)派です(笑)。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
結局のところ、「死」こそが、人間にとっての最大の謎であり、したがって、また魅惑なのだ。少なくとも私は、そうである。言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂(しゅうれん)し断絶し、再びそこから発出してくる力の契機としての「死」。この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色褪せて見えることか。死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きている人は、死を考えつつ生きるという人生最高の美味を逃していると言っていい。
【人生最高の美味『残酷人生論』 池田晶子の言葉 講談社 P21より】
「自分の死」について敢えて考えないように遠ざけるスタンスでは、人生最高の美味は味わえない、ということです。
では、すでに「私の生死問題」解決の術(すべ)が用意されていたらいかがでしょうか。それに乗っからない手はないでしょう。
浄土真宗の教えからいいますと、死が、人生最高の美味になるか否か、は南無阿弥陀仏によるか否か、ということです。つまり、南無阿弥陀仏を感じながらの生活は、人生最高の美味を味わっている生活ともいえましょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない、生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。
このことの不思議に思い至れば、人間が自分の人生について、自分の意志で決断してどうのこうのということが、いかに小賢(こざか)しいことであるかにも気づくでしょう。人間が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。人生は自分の意志を超えているのです。
【わからないのは当たり前『死とは何か』 池田晶子の言葉 講談社 P17より】
私の人生で、一番の問題は、遅かれ早かれ「私は死んでいかなければならない」という厳粛な事実があることです。いわゆる、「私の生死問題」です。
ここでは、
「人生は自分の意志を超えているのです」と提示されています。
つまり、「私の生死問題」ではありますが、自己解決は不可能ということです。
さて、どうしましょうか?