手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

教化

 

 「教化」とは、けっして僧侶が門徒を「教え導く」という意味ではありません。親鸞聖人において教化とは、聖人自身が如来の教化をたまわることです。したがって教化活動とは、「仏さまの教化にあずかる場を、僧侶も門徒もひとしく共有する営み(活動)」であり、ここに僧伽(さんが)という関係性が開かれてくるのです。

 ですから、一番問われているのは、この私の心身に真宗の教えが本当に響いているか否かということです。たしかな響き(自信)は、伝えよう伝えようと力まなくても、自然に伝わっていくのです(教人信)。

【法話のきほん 伊東恵深 法蔵館 P24より】

 

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まずは、私自身です。「私の生死問題」についてじっくり向き合いたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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当然を当然にうけとる

 

 曽我先生の喜寿特集号の原稿を逸早く送って下された先生、しかもその原稿が絶筆となってしまいました。73年間の永い御一生、その折々にふれて御縁を結ばせて頂いた人々と共に今更ながら先生を仰ぐばかりです(仲野良俊)

 その絶筆となった一文とは、

 「人間の生活に突然起ったり偶然現れたりすることは決して無いことである。どんな事件でも宿業の所感でないものは一つもない。

 突然とか偶然とかいう言葉があるが、そういうものはないのである。何事でも当然の事が一番賢明なことでそれ以上の工夫は無い。しかるに人間は当然を当然に受けとらないで、何か一工夫凝らすところに人間の馬鹿さ加減がある。

 弥次、喜多は風呂の底板をまくって入ったら足が熱くてついに人間の悲しさを発揮して下駄をはいて入った。当たり前にして入ればそんな事は無いので、当たり前は人間の工夫より賢明である。当然は突然でも偶然でもない必然であるから一番かしこい。その当然を肯(うなず)かれないで一工夫するところに人間の馬鹿さ加減がある。」

※一部、旧字を現代語に校正しました

【親鸞に出遇った人々(3)高光大船 師を称える P26、P27より】

 

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南無阿弥陀仏(のはたらき)を南無阿弥陀仏とうけとる。わたしの一工夫(はからい)は邪魔者なのです(笑)。当然(南無阿弥陀仏)を当然(南無阿弥陀仏)とうけとる、とてもシンプルなのですが、どうしてもわたしの思いや考えが入ってしまいます。とても簡単ですが難しい、というところでしょうか。

おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏

 

 

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お手本でなく見本

 

 清沢満之(きよさわまんし)の弟子で、加賀の念仏者として有名な高光大

船(たかみつだいせん)さんは、

「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」と言ったそうです。

 父も母も、たしかに、仰ぎ見てあこがれるような手本ではありません。しかし、ふつうの人間がどう生き、どう死ぬものなのかの見本を見せてくれました。

 それによって、私の生き方が定まったと思うと、無意識のうちに結ばれていた絆を感じざるをえません。それは、山ほどの本を読んでも、多くの偉人たちの話を聞いても、決してえられない教えだからです。

 年齢を重ねるにつれて、これまであまり意識しなかった、父や母の生き方に思いをいたすことが多くなりました。すると、自分が、父や母、祖父母、顔も知らないご先祖さまとつながっていることが実感できて、心強くなるのです。

 ですから、世のお父さんやお母さんに申しあげたいことは、「偉い父、立派な母」の姿を見せなければならない、という思いは捨てたほうがいいということです。

 それよりも、無理をせず、ぶざまな姿やみっともなさや、弱さをさらけ出して見せるほうが、大事な財産として子どもの心に残る。

【こころの相続 五木寛之 SB新書 P56、P57より】

 

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「人の手本になることはできないが、見本くらいにはなれるだろう」という言葉、すごく気に入りました。私自身、家族をはじめ人さまのお手本となるような生き方はできません。無理です。意識してお手本を演じるより、ありのままの姿をさらけ出して生きていく方が楽です。ストレスもありません。ときには、反面教師としてみてもらうような生き方は、人間本来の姿が垣間見え、有用なサンプルとなります。仏教においても、気取ることなく、ありのままの姿で「自分の存在意義」を問うていきたい、ものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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反出生主義

 

南無阿弥陀仏の視点からしますと、「私は生まれてこないほうが良かった」という反出生主義的な考え方はありえません。人間に生まれてこなければ、仏教は聞けませんし、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせられることはないから、です。私において、反出生主義の思想といいますか考えは、まったくもってナンセンスなのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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東奥日報(地方紙)2020年12月24日(木)付より

 

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まかせる

 

「仏(阿弥陀)さま のほうが 心配するな 私がシッカリしているから 俺に まかせとけと おっしゃってるんですよ 

だから『ありがとうございます』と いいなはれ 

いえなんだら それでもええわ それで ええ

まかせといたら ええんだ

それが 『まかせる』 ということや」

梯 實圓 

【生きて死ぬ力 石上智康(いわがみちこう) 中央公論新社より】

 

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阿弥陀さまに「まかせる」、ただそれだけなのでした。もう少し踏み込んで言いますと、「(阿弥陀さまに)まかせずにはおれなくなる」ということです。あくまでも、阿弥陀さまのひとりはたらきに依るからです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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すべてが当たり前でなくありがたい

 

  思えば、いままで「当たり前」だと思って過ごしていた日常は、貴重な、「有り難い」毎日だったのではないでしょうか。また、自粛生活を経験してみて、これまで私たちがほんの少し出歩くだけで、いかに多くの人と接触し、つながりを持って暮らしていたかをお知りになったと思います。

  そういう気づきこそが仏教的な視点からでてくるものです。朝起きて仕事に出かけていく。いろいろな人と交流する。休日には自由に外出できる。桜が咲けばお花見に行き、ゴールデンウィークやお盆休みを利用して故郷に帰省できる。自粛生活中にできなかったこれらのことは、本来すべてが当たり前でなく、「有り難い」ことだったのです。外出すれば路傍の花が、いまのあなたは美しく見えるでしょう。

  このように、これまで当たり前と思い、なおざりとしてきたこと一つひとつを見直していく価値観の転換が、いまこそ求められます。

【令和版 仏の教え  大谷光淳 幻冬舎 P17より】

 

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  新型コロナ禍の影響で、いままで当たり前のよう出来ていたことが、できなくなっている現状をみますと、本来すべてが当たり前でなく、「有り難い」ことだった、ことに気づかされます。

   阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏のはたらき」においてはいかがでしょうか。南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・わたしにはたらいています。(いま・ここで・わたしが、)そのはたらきに気づかされることは、とても有り難いことなのでした。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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浄土真宗の信心(誤解がないように)

 

  親鸞聖人は供養のために念仏したことはない、と仰っています。浄土真宗において「南無阿弥陀仏」の念仏は、私が称えるものでありますが、阿弥陀さまのはたらきが私を通して現れてくださったものだと受け止めます。

  阿弥陀さまのはたらきであるお念仏を、私たちの都合によって「供養」のための「手段」として用いることはできないのです。そのことを親鸞聖人は、(先ほどの言葉に続いて)次のように仰っています。

 

わがちからにてはげむ善(ぜん)にても候(そうら)はばこそ、念仏を回向(えこうして父母もたすけ候はめ。

(浄土真宗聖典 註釈版 八三五頁)

 

【訳文】

念仏が自分の力で努める善きおこないでありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。

 

浄土真宗のみ教えは、人は亡くなれば、阿弥陀さまのはたらきによって浄土に往生させていただき、さとりを開き、阿弥陀さまと同じように私たちを導いてくださっているというものです。ですから、何かのため、たとえば亡くなった人のために特別に「供養」するということはありません。故人を偲びつつ、生前のご恩、また、いまは仏さまとして見守っていてくださることに感謝して念仏する中で、私たちが阿弥陀さまのみ教えを聞き、諸行無常の世の中を精一杯生きていくことこそが大事なのです。

【令和版 仏の教え  幻冬舎 大谷光淳 P99~P101より】

 

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 ここで、「人は亡くなれば」とありますが、あくまでも、『生前に阿弥陀さまから「信心」を賜わった人』ということは、おさえておかなければなりません。死んだら誰もが仏さまになるのではありません。とても誤解されやすいところです。

  「信心」とは、浄土真宗辞典によりますと、「仏の教えを信じて疑わない心」とあります。換言しますと、阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」のはたらきに気付かされている、ということです。

 つまり、「人は亡くなれば」の箇所を丁寧に説明しますと、「いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさている人が亡くなれば」となります。誤解がないように、肝に銘じておきたいところです。

 おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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