手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

時間の二通りの数え方

 

  石原吉郎は『海を流れる河』(花神社)のなかで、時間のふたとおりの数え方があると述べている。

 ひとつは、一から始まってこれに、無限に一単位(年でも秒でもいいが)ずつ加えて行くやり方で、私たちはそのようにして、小刻みに未来を生きている。

 もうひとつは、たとえばロケットの打ち上げの時の秒読みのように、あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一単位ずつ時間を消して行くやり方である。残り時間がゼロになったときそれが起る。未来が終わるのである。

【生きながらえる術(すべ) 鷲田清一 講談社 P242、P243より】

 

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いま、ここで、わたしに、はたらいている南無阿弥陀仏という視点から考えますと、後者(あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一単位ずつ時間を消して行くやり方)のような人生の捉え方(数え方)は、どうなのでしょう(ゴールを設定する人生)? わたしは、前者(一から始まってこれに、無限に一単位ずつ加えて行くやり方)派です(笑)。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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死について考える

 

結局のところ、「死」こそが、人間にとっての最大の謎であり、したがって、また魅惑なのだ。少なくとも私は、そうである。言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂(しゅうれん)し断絶し、再びそこから発出してくる力の契機としての「死」。この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色褪せて見えることか。死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きている人は、死を考えつつ生きるという人生最高の美味を逃していると言っていい。
【人生最高の美味『残酷人生論』 池田晶子の言葉   講談社 P21より】

 

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  「自分の死」について敢えて考えないように遠ざけるスタンスでは、人生最高の美味は味わえない、ということです。
  では、すでに「私の生死問題」解決の術(すべ)が用意されていたらいかがでしょうか。それに乗っからない手はないでしょう。
浄土真宗の教えからいいますと、死が、人生最高の美味になるか否か、は南無阿弥陀仏によるか否か、ということです。つまり、南無阿弥陀仏を感じながらの生活は、人生最高の美味を味わっている生活ともいえましょう。

  おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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生きていることの不思議

 

 そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない、生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。

 このことの不思議に思い至れば、人間が自分の人生について、自分の意志で決断してどうのこうのということが、いかに小賢(こざか)しいことであるかにも気づくでしょう。人間が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。人生は自分の意志を超えているのです。

【わからないのは当たり前『死とは何か』 池田晶子の言葉 講談社 P17より】

 

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  私の人生で、一番の問題は、遅かれ早かれ「私は死んでいかなければならない」という厳粛な事実があることです。いわゆる、「私の生死問題」です。

 ここでは、

「人生は自分の意志を超えているのです」と提示されています。

つまり、「私の生死問題」ではありますが、自己解決は不可能ということです。

さて、どうしましょうか?

 

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今まさに聞いている

 

虫の夜の 星空に浮く 地球かな

         大峯 あきら

 

 この感じですね。秋は空気も澄んでくるから、ちょっと山の中に行けば、満天の星が眺められます。虫たちの大合唱を聴きながら、頭上の星々を見上げれば、当然この感じになっていくはずです。

この句が面白いのは、虫の音を聴き、星空を眺めているところの私が、虫の音となり星空となる逆転の構図を鮮やかに捉えているところで、「浮く」の一語が、端的にそれを表しています。

 人はたいてい、客観的物理的な世界というのが、自分の先に存在していて、自分はあとからそれを経験するのだと思っていますが、よく考えると、そうではない。外界の虫の音を私が聴き、外界の星空を私が眺めているのだと思っているのですが、じつはそうではないのです。

 たとえば、ヘッドホンをつけて大音量で音楽を聴くとき、音楽は「どこで」鳴っているのでしょうか。「私の頭の中で」それは鳴っているとは、どうも言い難い感じですね。聴覚神経への刺激が大脳に伝達され、それが音楽として認識されるなんて説明は、完全に事後の説明、文字通りの「説明」であって、事柄そのものでは決してない。事柄そのもの、純粋な経験としては、ただ音楽が鳴っている、いや、音楽が存在する、世界が遍(あまね)く音楽であるという、そういう経験であるはずです。夢中で音楽に聴き入っている時、「私が聴いている」なんて言語化が蛇足であるのは実感ですよね。

 仮にこの言語化、科学的説明が正しいとしても、音を聴くというこの経験そのものの何であるかを言っていることになりません。なぜなら科学は、この「聴く」「聴いている」という自分の経験を前提として、そこから説明を始めているわけだから、前提そのものの何であるかを説明できないのは当然なのです。耳の聴こえない人に、音を聴く、音が聴こえるというのはこういうことだと、この科学的説明により理解させることはできません。「聴く」「聴こえる」という経験は、今まさに聴いている、聴こえているというこの経験、この感じ以外の何ものでもない。だからこそ経験とは不思議なものなのだ。

【犬の力知っていますか? 池田晶子  毎日新聞出版 P194~P196より】

 

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この文章を読んでいますと、「私が南無阿弥陀仏のはたらきに気付く」ということを説明する上で、通じるものがあります。理屈なしに南無阿弥陀仏、という表現になるでしょうか。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

※下記リンク:「最後に届いた手紙(池田晶子)」もどうぞ!

 

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tarou310.hatenablog.com

 

 

コップの水

 

  人生をコップの水の量で喩えることがあります。コップ半分の水を、まだ半分もある、と捉えるか、もう半分しかない、と捉えるか、捉え方一つで、その意味合いは全く違ってきます。生死問題を考えるのであれば、後者(水は、もう半分しかない)になるでしょうか。

  南無阿弥陀仏の人(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人)は、どう捉えようが有意差はないように思います。コップの水の量は、特に問題にならないからです。あるがまま生きる、ただそれだけなのです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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お念仏

 

自分の意思で発しているように思っているお念仏(南無阿弥陀仏)。本当は、阿弥陀さまがわたしと一緒になって称えさせてくださるのでした。そのお念仏は、言葉となって、そして音声となって、わたしの耳に入ります。その繰り返しです。まさに、お念仏は私の(口と耳を通して)中で循環しているのでした。

「我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声」(原口針水)という言葉が心に響きます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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言ってみたいフレーズ!

 

この世へ生まれてきた、これを誕生という

お浄土へ生まれていく、これを往生という

私の中には死は存在しません

【お念仏とは 梯 實圓 師 御法話より】

 

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「私の中には死は存在しません」

このように言い切れる人は、生死を超えた世界を生きている人です。つまり、「南無阿弥陀仏の人」ともいえるでしょう。わたしも「私の中には死は存在しません!」と、堂々と言ってみたいものです(笑)。素晴らしい言葉といいますか、格好いい言葉です~。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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「お念仏とは」梯 實圓 師(82分)