手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

大峯 の検索結果:

お浄土が来てくださる

…思いますね。 【かならず煩悩のこほりとけ 大峯 顕 響流選書より】 自分中心で物事を考えたり、思ったりすることは、私生活においても褒められたものではありません。南無阿弥陀仏を語るときも、「私が」ではなく、「阿弥陀さまは」というスタンスが大事だと思います。 そして、「お浄土が来てくださる」とありますが、本当にいい言葉ですね。なんか、ホッとしませんか。安心感、安堵感でいっぱいです。私からすれば、「お浄土はすでに来ている」と現在進行形になります。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

命は個人のものではない

…代と浄土の教え(下)大峯 顯 響流選書より】 池田晶子(下記リンクよりどうぞ) https://tarou310.hatenablog.com/search?q=%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90 確かに、私は、自分の意思で、この時代に、この日本に生まれてきたのではありません。また、この風貌で(笑)。まさしく、私は生かされている、といってよいでしょう。ここで、「自分の命は、個人のものでない」といわれています。「なるほど!」少し考えれば納得…

若くても死にます

…今日の宗教の可能性 大峯顯 百華苑 P49、P50より】 仏教に「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。「生きること」と「死ぬこと」は、紙の裏表のように切り離せない関係である、という意味です。そのように捉えますと、ここで言われている「(死ぬ資格は)一歳でも九十歳の人と一緒です」という言葉も納得できます。 もし、高齢者から順番に死んでいく世の中であったならいかがでしょうか。次は自分の番である、とはっきり分かることで(自分の順番が近づくにつれ)平常心ではいられなくな…

「浄土教の思想」に注目しませんか⁉️

…。 【宗教への招待 大峯 顯 本願寺 P13、P14より】 ここでもありますように、 世界宗教は、「人間存在の根本的な解決の途(みち)」において、それぞれの教義の言葉で説いています。その数ある(世界)宗教の中でも、大乗仏教とりわけ、浄土教の思想には、「人間存在の根本的な解決の途」について、深い洞察が見られると思う、と結んでいます。私もそう思います。もっと掘り下げまして、浄土教の思想の中でも「浄土真宗の教え」に、より注目してほしい、と思います。そこに発見といいますか、気付きがあ…

如来さまの言葉を聞くこととは

…。 【宗教への招待 大峯 顯 本願寺 P227〜P231より】 「如来さまの言葉(南無阿弥陀仏)を聞く」ことについて、とてもわかりやすい表現で解説されています。また、「仏法は聴聞に極まる」という蓮如上人のお言葉をしっかり受け止めたいものです。「棚から牡丹餅」的発想は要注意です(笑)。この文章を読んでいまして、このブログを始めた頃の「オープンカー(下記リンク)」を思い出しました。「南無阿弥陀仏」は色褪せることはありません。言うまでもなく当たり前のことですが。 おかげさまで 今日…

言葉に対する仏教の三つの態度

…前になるでしょうか。大峯先生と直接お話しする機会に恵まれました。その折、当時、先生の出された書籍で、特にオススメはなんですか?の質問に対して、今回紹介しました「宗教の招待 =宗教の再生のために=」と答えられました。以前もこのブログで、そのような件(くだり)の投稿(下記リンクあり)をしました。 では、本題です。今回、提示しました文章は、「言葉に対する仏教の三つの態度」について、それぞれ、わかりやすく解説されています。文章最後の部分(青字/赤字部分)を言い換えますと、以下のように…

「南無阿弥陀仏」という言葉

…が南無阿弥陀仏を称えることなのです。南無阿弥陀仏を称えるということは、私と仏が一体である姿ですから、私は必ず仏になるのです。 【今日の宗教の可能性 大峯 顯 百華苑 P 127より】 この短い文章に、「南無阿弥陀仏」という言葉が8回もでてきます。「南無阿弥陀仏」についてあらためて確認させていただきました。 阿弥陀さまと私は、「南無阿弥陀仏」という言葉で繋がっています。一心同体 南無阿弥陀仏の人は、人としての寿命を終えると必ず仏になるのです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀仏の本願を信じ念仏する

…宙の中の自己の救い 大峯 顯 P22、P23】 下記、ズバリいわれています! 「人間にはわからないこの死を受け容れることができる道が(阿弥陀仏の)本願を信じ念仏する道であります」と。 医学や生理学の持ち分は、死ぬまでのことです。いかに健康で長生きさせるかが目的となっています。死自体(生死問題)の持ち分は、真の宗教とあります。真の宗教、つまり浄土真宗の教えに生死問題を解決する道がある、ということです。数ある宗教の中で、浄土真宗の教えに出遇い、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する身になる…

如来さまのお護りの中にある人生

…暗闇でありましょう。 【『歎異抄』第十七条・第一八条 信心がなければ地獄に行くのか 大峯 顯 百華苑 P 31、P 32より】 「どんなに辛い人生であろうが、往生が如来さまに約束されているということは、如来さまのお護りの中にある人生だということです。」 『如来さま(阿弥陀さま)のお護りの中にある人生である』と気付かされた、あるいは、知らされた上での生活に勝る生活はありません。とてもありがたいことであります。こんな幸せなことはありませんね~。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまが私に合わせてくれる

…う身のほど知らずな心をもって、生きているのです。こんな私だったらとても如来さまでも無理だろうといって如来さまのお助けについて、はからいをするのです。 【『歎異抄』第十六条 宗教的回心 大峯 顯 百華苑 P11、P12より】 私が、阿弥陀さまのお助けに合わせるのではありません。それ以前に(阿弥陀さまのお助けに)合わせられるはずがありません。自惚れもいいところです。阿弥陀さまが、私に合わせてくれるのでした。ですので、私の計らいは不要なのです〜。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

私とはなんぞや

…即身成仏と信心決定 大峯 顯 百華苑 P52より】 この私の身体は、しばらくの借り物です。いずれ別れる(離れる)時がきます。大峯師は、人間の身体を着物といっています(笑)。的を射た表現です。この身体ともあとしばらくの付き合いです。私とはなんぞや、ここでは、「我のはからいをやめて仏様の教えを聞いたらわかります」と言われています。ここでいう仏様の教え、つまり、(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせられると、私とはなんぞや、が知らされるのでした。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀…

我を張る(自己中心)

…うこの人間の抜きがたい自己中心性の習性から、人類史上初めて解放された人が釈尊です。 【『歎異抄』第十四条 念仏申さずしてをはるとも 大峯 顯 百華苑 P5より】 素直になりなさい!と言われても、そう簡単に素直になれないものです(笑)。この地球上に、お釈迦さまがあらわれなかったならば、と思うとゾッとします。でも、その心配はありません。南無阿弥陀仏のはたらきに気づくか否か、ただそれだけです。ただそれだけ、ですがなかなか難しいところでもあります。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

浄土真宗の精髄

…とっくの昔に如来様が心配の無いようにしてくださっていたんだ」ということにふと気づく。これが如来様に助けられたということです。浄土真宗の精髄は実にここにあります。これを抜きにして浄土真宗はありません。 【『歎異抄』第十三条 宿業と自由 大峯 顯 百華苑 P54、P55より】 精髄とは、物事の本質をなす最も重要な部分、という意味です。ここでは、浄土真宗の精髄について、ズバリ書かれています。非常に分かりやすい解説です〜。 This is 浄土真宗! おかげさまで 今日 南無阿弥陀仏

目覚め

…のです。人間は死ぬ前にこれに気づくことが大事なんですよ。こここのところをよく聴聞されないと、せっかく人間としての生を棒に振ってしまうことになりかねません。 【『歎異抄』第十二条 教学は何のためか 大峯顯 百華苑 P9、P10より】 人として生きている今、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくこと(目覚めること)が最重要課題です。生きている「この今」を意識したいところです。常識を超えたものにおいては、そのもの(南無阿弥陀仏)に依らなければなりません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

念仏の衆生を摂取して捨てず

…を知ってないからです。今ここで助かってない人は死んだところで決して助かりません。これが一番大事なことです。 【『歎異抄』第十一条 誓願か 名号か 大峯 顯 P8、P9より】 〉如来様の言葉を素直に受け容れたときにもう助かるのです 如来様の言葉、つまり「南無阿弥陀仏」」です。 南無阿弥陀仏のはたらきに気付いたとき、私の心に花が咲きます。生きてよし、死んでよし、すべてよし、なのです。 「念仏の衆生摂取して捨てず」 なんと心強い言葉なのでしょう〜 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

お念仏の人

…ている世界のことなのです。 【『歎異抄』第十条 自然の道理 大峯 顯 P20、P21より】 私の計らい(私の思いや考え)を超越した「念仏の世界」。なんとか自分の力で、理解しようと思ったところで理解のしようがありません。理屈なしに「南無阿弥陀仏」と口から溢れでる念仏。なんとありがたいことでしょう。「南無阿弥陀仏」を盾にすることはお門違いです。この今も、そしてこれからも、阿弥陀さまと一緒の人のことを、ここで「お念仏の人」といわれています。 おかげさまで 今日 南無阿弥陀仏

念仏(南無阿弥陀仏)で交流

…、「ありがとうございます。どうぞお助け下さいませ」という報謝のお念仏でありますから、そこに如来と凡夫の間に交流があると言えましょう。お念仏は交流です。 【『歎異抄』第九条 なごりをしくおもへども 大峯顯 百華苑 P35、P36より】 阿弥陀さまと私の交流は「南無阿弥陀仏」をもってして可能なのです。ですので、私は「南無阿弥陀仏」と称えます。阿弥陀さまと私の交流には、何人も入りこむ余地はありません。阿弥陀さまと私の一対一の世界なのです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

仏法とは

…』第七条・第八条 無碍の一道 大峯 顯 百華苑 P5より】 仏法は現世利益のためにあるのではありません。私の生死問題解決のためにある、といってよいでしょう。すでに届いてある南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている、知らされている人生の前途は明るいのです。行き先が明確になっている人生ともいえます。人生の白黒がついたのです。死にたくないけど、死ぬことの不安はありません。阿弥陀さまにおまかせの人生です。煩悩渦巻く人生ですが、根底は大安心なのです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

私の思いや考えを超越した「広大無辺の世界」

…、それはもう親鸞聖人がおすすめ下さる他力の信心ではなくなるのです。信心というのは如来様の心を私の心にいただいたことなんですから、それはもはや自分の心ではないんです。ここのところが一番大切で、また難しいんです。 【『歎異抄』第六条 弟子一人ももたず 大峯 顯 百華苑 P12、P13より】 「私の」という狭い世界の殻に閉じこもって、アレコレ思ったり考えたりしたところで何の進展も解決もありません。「阿弥陀さまにおまかせ」あるのみ、なのでした。 おかげさまで 敬老の日も 南無阿弥陀仏

私の生死問題

…まうのですけれど、お釈迦様はその事を徹底的に考えられたんです。そこがやっぱり仏さまになられた人と我々との違いだと思います。 【『歎異抄』第四条・第五条 大慈悲心 大峯 顯 百華苑 P4,P5より】 「人間、生まれたからには必ず死んでいかねばならない」ことは、誰でも分かっていることです。しかし、「私が死ぬ」となると、どうでしょうか。死は他人事、になっているのが現状ではないでしょうか。「私の生死問題」について考える時間はとても大切だと思います。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

安心して死んで行けますか?

…地獄を持っているわけです。死ぬのは怖くて怖くてしようがないということは、地獄を持っているということです。これはもうごまかしようがないですね。 【『歎異抄』第三条 悪人成仏 大峯 顯 百華苑 P8より】 「阿弥陀様の本願を信じている人」とは、「阿弥陀様の南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人」ということです。ここでは、「ご信心の人」という表現でも述べられています。さて、皆さんは安心して死んで行けますか?今一度、自分自身に問いたいものです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏という言葉

…。」—このように阿弥陀様が云ってをられる言葉が南無阿弥陀仏であります。 【『歎異抄』第二条 よきひとの仰せ 大峯 顕 百華苑 P55より】 阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏(死ぬことは何の心配もないぞ!)」と、わたしに呼び掛けらますので、わたしは「南無阿弥陀仏(ありがとうございます!)」と応えます(感謝の気持ちを伝えます)。つまり、「南無阿弥陀仏」という言葉で、阿弥陀さまとわたしの間で会話が成立しているのです。こんな心地よいことはありません~。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

病気を楽しむ心境

…したりするのではなく、それをまるごと受け入れ、苦しいことは遠慮なく苦しいと言うことが苦を生きることであり、つまりは人生を生きることであるというような境地です。 【命ひとつ ―よく生きるヒント 大峯あきら(大峯 顯) 小学館 P6より】 人として生まれ生きてきてよかった、という心境や境地で死んでいける人生に勝るものはありません。ここで、「病気を楽しむ」心境とありますが、これは、「自分(わたし)の生死問題が解決した」ことをいっているのでしょう。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

仏さまの教え

…下さる如来様の言葉を真受けにしなければだめなのです。真受けというのは、丸ごと、そのまま受け入れるということです。 【誓願の不思議 『歎異抄』第一条 大峯 顯 百華苑 P9より】 「丸ごと、そのまま受け入れる」 つまり、理屈なしに「南無阿弥陀仏」ということです。実際、阿弥陀さまと私の間に距離はないのですが、わたしの方から距離をおいているのです。(阿弥陀さまに対して)私の分別や計らいがあるうちは、その(阿弥陀さまとわたしの)距離は埋まりません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

今まさに聞いている

…空に浮く 地球かな 大峯 あきら この感じですね。秋は空気も澄んでくるから、ちょっと山の中に行けば、満天の星が眺められます。虫たちの大合唱を聴きながら、頭上の星々を見上げれば、当然この感じになっていくはずです。 この句が面白いのは、虫の音を聴き、星空を眺めているところの私が、虫の音となり星空となる逆転の構図を鮮やかに捉えているところで、「浮く」の一語が、端的にそれを表しています。 人はたいてい、客観的物理的な世界というのが、自分の先に存在していて、自分はあとからそれを経験する…

「後生の一大事」を心にかけて(大峯 顯 師 法話)

真理というのは一瞬で分かる。 あ、そうか(私は阿弥陀さまに)お助けいただくんか。 これだけです。 (大峯 顯 師 法話より) とても心地よい御法話でした。浄土真宗でいう「信心」について、ど直球でお話頂いています。大峯先生のルーツにも興味が湧きました。また、ユーモアの中に厳しいお言葉、身に沁みました。果たして笑えるのか(笑)。おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 大峯顯師法話「後生の一大事」を心にかけて 平成23年2月25日 本願寺津村別院ホール(1時間40分)より

言葉が語る

…あるということです。大峯 顕先生が、よく話しに出されていたフレーズです。先生の「言葉に対する捉え方」にわたしも共感しています。仏教を聞けるのは、言葉を使用して生活している人間だけです。人間と動物の大きな違いは、言葉を使うか否か、というところです。阿弥陀さまは、そこに注目されて「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉に、(阿弥陀さまの)命を込められたのでしょう。そのことを、伝える手段も、やはり言葉です。 わたしのモットーは、「いかに簡潔な文章で分かりやすく物事を伝えるか」です。日々、…

如来が作られた言葉

…れた言葉』といわれた大峯顕 師の言葉に共感します。また、大峯師が生前強調して話されていた「言葉が語る」という言い回しはとても印象に残っていますし、実感しています。言葉は単なる記号なんかではありません。(言葉には)はたらきがあります。日常生活を営む上で、その(言葉の)はたらきの感受性を養うことはとても大事なことではないでしょうか。読書でいえば、「行間を読む」ということでしょうか。 南無阿弥陀仏も然り。「南無阿弥陀仏」は単なる6文字ではありません。はたらきがあります。そのはたらき…

大峯 顕 先生のこと(浄土真宗僧侶、哲学者、俳人)

…にも、このブログで、大峯 顕 先生のことを紹介しましたが、あらためて。 「言葉は語る」という表現を用いたのは、大峯 顕 先生です。※あるいは「言葉が語る」。先生とは、六角会館(京都市)、願教寺(盛岡市)の2回、計3回、直接お会いする機会がありました。とてもお洒落で気さくな先生でした。また、ユーモアたっぷりのお話しは今でも印象に残っています。 先生の存在は、ある一冊の本との出合いで知ることに。書店で、たまたま手にとった(先生の)書籍がきっかけとなりました。哲学者、俳人でもあった…

宗教心とは

…【本当の命を生きる 大峯顕法話集 響流選書より】 宗教心とは、本当の安心をもらいたいという願い、とあります。では、「本当の安心」とは何でしょうか? それは、わたしの生死問題がクリアになることではないでしょうか。実際、自分の死が切実な問題になっている人はどれくらいいるのでしょう。生死問題は、一人ひとりの問題です。考えないようにしても、いずれ死はやってきます。厳粛な事実です。といいましても、自分がいま死ぬと思って生きているひとはまずいないと思います。所詮、死は他人事なのです。事実…