手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自力心

 親鸞聖人の生涯で最も問題にされたのは自力心です。それゆえ、蓮如上人の『御文章』一帖目十五通の「宗名の章」に、


されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす。わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。(『註釈版聖典』一一〇五頁)


とあり、蓮如上人の上では、雑行とはそのまま自力心を意味するので、自力心を認めるか否かで「真」の一字を加えるとあります。一つになり合う立場は自らの造作を認めますから、真実とはいわれないのです。
 蓮如上人の機法一体の釈の「一つである」とは、名号と信心は別なものではなく、名称の異なるのは機法の立場の相違によるものといわれるのです。信心とは、名号が「この私」の上にはたらいている相をいうので、信心そのもののものがら(体)を求めると名号のほかにはあり得ないのです。あたかも水と波のように、波のそのままが水のほかにはあり得ないようなものです。この名号は衆生の側に領受されると、母乳のお乳のように理屈ぬきに愛児の上で成熟する因となるのです。万行円備の嘉号が、そのまま「この私」の上に領受されると、信心往生とか念仏往生といわれるように「念仏成仏自然なり」といわれるのです。
 この名号法は、いつでも、どこでも、誰にでもとどけられているのですが、それを自ら拒絶しているのです。この拒絶することを自力心というのです。ですから、親鸞聖人は特に自力心を問題にされているのです。
聖典セミナー 無量寿経 稲城選恵 本願寺出版 P162,P163より】



阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきは、このいまも、ひとりひとりに届けられています。
にもかかわらず、そのはたらきに気づかないことは、まことに勿体ないことです。
しかも、自ら拒絶するなんて、ホント勿体ないことですよ。
相手は阿弥陀さまであって、自分ではありません。自分のはからいで、「あ〜だ、こ〜だ」と頭をいくらコネクリ回しても意味はありません。方向転換が肝心です。阿弥陀さまに向かわせていただく、阿弥陀さまにただおまかせ、肝心要はそこなんですよ。
今日も、なあまんだぶつ なあまんだぶつ