手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分で気づいたのではなく、気づかせてもらった

 私は近頃、如来廻向の信心と申された宗祖のお心が思われてならないのであります。
 それは、信心と申すものは、私が如来の大悲、願力を領納することであります。だから私がやることであります。それを、宗祖は「如来廻向の信心」だと申されたのであります。私が如来の本願に疑いはれることであり、私が如来の本願のいわれを聞くことであり、名号のお徳に遇うことであるから、同じ法然門下の同侶である西山上人も、幸西上人も、領解の一念は機の分斉であり、一念の心は私のおこすものと説かれるのであります。
 私はもう三十年ほど前に、「悪の他覚」という言葉を使って、倫理学者や哲学者から「お前は自覚という言葉の意味を、正確に知らない」と非難されたことがあります。でも、私は今もって「悪の自覚」という言葉は使いにくいのであります。
 それは、私は今、少しは自分の悪は知らされています。少なくとも、外への表現では悪いと申します。でも、自分は悪いと気づくだけの心を、私が持っているのであろうかという疑問が起ってくるのであります。自分が悪人だと気のつくような自分でないのに、事実は、少しばかりでも悪いと気づいているのは、自分で気づいたのではなく、気づかせてもらったのだ、というより外はないのでしょうか。自覚という正確な使い方は知らないかも知れません。しかし、私には「自覚」という言葉は、「自分で覚る」「自分で知る」という意味に取れるので、「悪の自覚」ではなく、「悪の他覚」「悪の他力覚」といった方が、なんだか落着くような気がするのであります。
 大変不遜ないい方かも知れませんが、私には、宗祖が「如来廻向の信心」と申されたのには、こうした心理が動いたからではないか、と思われるのであります。
 それは、自分はいま、如来の本願に対して疑いは晴れておる、しかし、自分には、如来の本願に疑いはれるような心があったのだろうか、そうした問題があって、自分のおこした信心の如く思われるものを、「如来廻向の信心」と申されたのであり、そこには宗祖の深い思索と、強い内省とがあったのではないかと思われるのであります。
【桐溪順忍和上法話集 「私との対話」 同朋舎 P73〜P74より】



ここで述べられていますように、
『自覚する』といえば、「自分で知る」という意味に受け取るのが普通ではないでしょうか。
そうなりますと、『自覚する』は、あくまでも私が主体です。私の経験則、私が積み上げた知識での判断はあてになりません。そんなあてにならないモノサシで、分かった!知った!といくら言っても、本当に分かった!本当に知った!とはいえないと思います。
阿弥陀さまが主語であるぞ!自分じゃないぞ!と、
親鸞聖人が「如来廻向の信心」とお示しくだされた御心は、実にそこのところにあったと思わずにおれません。
つまり、私は、阿弥陀さんにただおまかせ、となります。 
なまんだぶつ なまんだぶつ