手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2024-04-04から1日間の記事一覧

阿弥陀さまと私

確かに、法話(聴聞)やお聖教は大事です。しかしながら、肝心の阿弥陀さまを度外視しては意味をなしません。まずは、いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気づくことが先決です。「阿弥陀さまと私」「私と阿弥陀さま」が根本にあってはじめて、法…

聞こえたままが信心

換言しますと、 「南無阿弥陀仏のはたらき」に気付かされている、ということです。何の力みもありません。空っぽです。14年前、このブログで投稿した『無疑(稲城 選恵 和上)』を再掲します。 【2010年6月15日投稿】 無 疑 『御文章』四の八にあるが如く…

仏法は聴聞に極まる

「ただ仏法は聴聞にきわまることなり(蓮如上人)」と、いわれます。先人は、聴いているうちに(向こうから)聞こえてくる、という表現で教示しています。「聞こえたままが信心」となればしめたものです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまのよび声

我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声 (原口針水) 心に響く詩です。親とは、阿弥陀さまのことです。南無阿弥陀仏という言葉を通して、阿弥陀さまと私が対話している、ともいえましょう。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまと私の間を循…

阿弥陀さまと対峙

阿弥陀さまと私の間には、何人も入り混む余地はありません。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏