手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

唯除の心

 

   親鸞聖人は、「一闡提」を非常に問題にされます。その「一闡提」というのは、「愁悩を生ずる者なし」(「信巻」聖典二〇九頁)、悩みを生ずることのない者ということです。その一闡提に応えるものが「唯除の文」なのです。この「唯除の文」については『尊号真像銘文』に親鸞聖人の釈があります。
「唯除五逆(ゆいじょごぎゃく) 誹謗正法(ひほうしょうぼう)」というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十法一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり。(聖典五一三頁)
   そこに「唯除というは、ただのぞくということばなり」とあります。「のぞくこころ」ではないのです。除く心は、切り捨てる心です。そこに「ことば」と言われていますが、これは大河内了悟先生の言葉ですが、「ことばというのは、その除けない心で除くということばなんだ」と言われました。つまり、おまえなんか勘当だというその叫びには、悲しみ、怒り、そういうようなものがこもっていて、見捨てることのできない心で叫んでいるというのです。
   次に、「誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十法一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」とあり、その知らせんとする叫びだということです。そのことは、さらに言いますと、「唯除の心」というのは、その本人より先にその本人のあり方を深く悲しむ心なのです。勘当というのは、その息子より先に息子の心を悲しむ、息子の生き方を悲しむ心なのでしょう。
【〝このことひとつ〟という歩み 唯信鈔に聞く 宮城 顗 法蔵館 P109、P110より】

 一闡提(いっせんだい)
世俗的な快楽を追求するのみで正法を信じず、さとりを求める心がなく成仏することができない衆生のこと。浄土教では、これらの者も回心すれば浄土することができると説く。
【浄土真宗辞典 P34より】

誹謗正法(ひほうしょうほう)
略して誹謗ともいう。仏の教えをそしり、正しい真理をないがしろにすること。五逆罪より重い罪とされる。
【浄土真宗聖典P562より】

五逆罪(五逆)
5種の重罪のこと。①父を殺すこと ②母を殺すこと ③阿羅漢を殺すこと ④仏の身体を傷つけて出血させること ⑤教団の和合一致を破壊し、分裂させること
【浄土真宗聖典P200より】

 

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ここでは、「唯除の心」について勉強させていただきました。「勘当」ということを引き合いに分かりやすく説明されています。「唯除の心」に、阿弥陀さまのとても深い御心が伺うことができます。もっと平たく言いますと、阿弥陀さまの私に対する愛情、やさしさを感じます。だれもが、その御心に応えたいものです。そして、その応える術(すべ)もすでに用意されてくれています。それが「南無阿弥陀仏」なのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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