手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

不思議

 幽霊がいるかどうかとか、空飛ぶ円盤があるかどうかとかを「不思議だ、不思議だ」といっているのは、考えられた不思議で、本当の不思議ではありません。考えるよりも先にある不思議ということです。この身がここにあるということ自体が、不思議なのではありませんか。どうしてこのお父さんとこのお母さんのあいだに私は生まれたのだろうか。本当は、このことが不思議なのです。どうして眉毛は横に、目も横で、鼻が縦になっているのでしょう。そのほうが不思議なのです。
 現在ただ今、この身をいただいていること自体の不思議ということに目を開かないで、それ以外に何が不思議でしょう。作られた不思議に騙されて、自分を失っていくことになりませんか。「仏法に不思議なし」、人間が作って考えた不思議を、仏教ではいいません。真の仏法には不思議なし。つまり、煙は上に昇る、水は高いところから下に流れる、そういうことを説くのが仏教だというのです。つまり、道理を説くのが仏教です。「弥陀の誓願不思議」とは、人間の思いはからいに先立った大きなはたらきです。
【(改訂新版)歎異抄講義 上 三明智彰(みはるとしあき) P19、P20より】



世の中、不思議といってもいろいろあります。作られた不思議に固執してもなんの進展もありません。わたしが・いま・ここで生かされていること以上の不思議はありません。
道理を説く仏教、もっと掘り下げて、浄土真宗の教えを拠りどころにしたいものです。
もはや、そこに迷いはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏