解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
(浄土和讃 五)
私は様々な思いによって、自分自身をがんじがらめに縛っている。阿弥陀如来はそんな私の我執の縄を切り、いのちは等しく尊いという広々した世界に解き放ってくださる。この広い世界を歩んでいこう。
ここに私の歩むべき道があります。それはこの和讃に「有無をはなる」と示されているように、世界と自分とがともに常住不変だという「有見」と、世界と自分がともに虚無に帰するという「無見」のどちらかからも自由になり、本当のいのちの尊さに気づかされていく道です。
ここまでの三つの和讃に「世の」「ことごとく」「みな」と表されているように、その道には、光の中を同じ仏の世界に向かって、ともに歩んでおられる人がいる。御影堂内に響く声は、私がかけがえのない、自分しか歩めぬ人生を生きながら、同時に、阿弥陀如来のみ心のただ中で、人々とともに、広い場に生きていることを教えてくださるのです。だからこそ「いのちは尊い」といえるのです。
【いまを生かされて 大谷光真 文藝春秋 P20,P21より】
南無阿弥陀仏のおはたらきに生かされている命だからこそ、「いのちは尊い」のですね。
誠に、ありがたいことですね。
「なぜ、命は尊いのか?」という問いに対する回答は、浄土真宗の教えにあります!
至って明快です!