手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗を語る上で

「救いの水際」とか「救いの境界線」という視点で、南無阿弥陀仏を語ることは間違いです。「水際」とか「境界線」という言葉がでた時点で、それは自力です。そこにゴールを自分でこしらえて進もうという発想に陥ってしまいます。視点が自分に置かれてしまいます。自分の狭い世界観で、「あ〜だ、こーだ」といくら思いを巡り回してもなんの解決にもなりません。
すでに南無阿弥陀仏につつまれている環境下において、「救いの水際」とか「救いの境界線」という表現はどうも馴染みません。「人生の目的」という言葉も同様です。
南無阿弥陀仏の先人は、「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」とか「助かってみれば助かることもいらなかった」と詠われています。
南無阿弥陀仏の立場にたたせて頂きますと、その先人の詩が心に沁みます。
すでに、南無阿弥陀仏はひとりひとりに届いています。
南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂くか否か、ただそれだけです。
至って、シンプルです。自分から距離を置くことほど勿体ないことはありません。
最後に、蓮如上人のお言葉をご提示させて頂きます。
そもそも、このごろ当国他国のあひだにおいて、当流安心のおもむき、ことのほか相違して、みな人ごとにわれはよく心得たりと思ひて、さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。これまことにあさましき執心なり。すみやかにこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか。
【御文章三帖目第八通より抜粋】