手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

駒立の吉蔵同行語録

南無阿弥陀仏という体そのものに徳がある
大名が持っても乞食が持っても十両十両。持った人によってその値打は変わりゃせぬ。
今も南無阿弥陀仏という十両も、聞き手に徳があるのじゃない。南無阿弥陀仏という体そのものに徳があるのである。機(聞き手の人間)の上に値打を見たら地獄落ち。この機の上に往生の相談注文のないのが、如来の本願の約束じゃ。



一両=小判一枚=銭四千文
一両は、現在の価値にすれば10万円に相当(江戸時代初期)
【YAHOO!JAPAN知恵袋より】



凡夫の知恵でわかる法ではない
阿弥陀の法は変化(へんげ)の法といってよい法である。大豆を蒔いて大豆を収穫するのは当たり前のことであるが、今阿弥陀の法というのは、水瓶から火を出そうとするようなことで、まるっきり『無有出離之縁』(生死の迷いから出離する縁の全くない分別煩悩成就の凡夫)と〆(しめ)打たれている(と決まっている、それ以外の何者でもない)凡夫そのままを仏にするという変化(へんげ)の法である。機の上では仕合せだけは知らせてもらえるが、なるほどと言えぬ法である。凡夫の知恵でわかる法ではない。
妙好人を語る 楠 恭 NHK出版P195より】
※タイトルは、私が勝手にその語録から抜粋させて頂きました。