手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

三つの量(はかり)

 自分自身が聞いている念仏の教えを、正しく聞けているかどうかということを自分自身で判断することは容易ではありません。〝自分の信心が正しいかどうかの判断がつかないなんて、ありえないこと″と思っておられる方もいるかもしれません。
 念仏の信心は、阿弥陀さまからいただいた信心です。凡夫のなかには、どのような努力をしようとも有り得ないこころです。そのこころを正しいか否かがわかるはずがありません。


 しかし、阿弥陀さまからいただいたまことのこころをよくよくたずねていくと、その味わいを深めていくことができます。
 今までの自分では気づかなかった自分を見せてもらうことができる。外にしか向いていなかった自分を振り返るようになる。私ひとりで、自分の力で生きているということがいかに不遜(ふそん)な思いであったかということを思い知る。阿弥陀さまとともに生かさせていただいていることを感じる。等々、そのときどきに、とても私のなかから出てきたとは思えないことを感じるのです。
 そんな思いが、仏法を聞かせてもらいたかったがゆえの思いなのか、それとも単なる気まぐれなる思いなのか?その思いがホンモノかニセモノか判断をつけたい。これがまた凡夫の心です。
 それならば、ほんとうの教えを聞かせてもらったのかどうかもわからないまま、自分の心と葛藤をくり返してゆくだけなのでしょうか。そうではありません。正しい智慧に遇えたのか、阿弥陀さまの願いにまかせることができたのか、疑いの心がすっかりなくなっているか、など肝心なところを知る手だてがあるのです。それが三量(さんりょう)、三つの量(はか)りです。「量」というのは、もともと目盛とか基準という意味があります。


 一つめは、聖教量(しょうぎょうりょう)です。お経のことであり、また経典などに示されたさとった者の言葉です。この言葉に自分の心の動きを照らし合わせたとき、一致するものなのか、まったくかけ離れているのかを問うのです。
 二つめは、現量(けんりょう)です。いま、ここの、わたしの思いです。心が阿弥陀さまと向き合っているのか否か。阿弥陀さまに照らされているのか否か。念仏が私の心のなかではたらいてくださっているのか否か、等々、私が仏法をどのように知覚しているのかという判断基準です。
 そして三つめは、比量(ひりょう)です。私の信心を私と同じ教えを聞いた人たちの信心と比較をするなかで、正しいものかどうかを確かめるのです。阿弥陀さまのこころの受け取りようを聞き合い話し合うことが必要です。
 自分の信心がこれでよいのかどうかと、とらわれてしまうのは凡夫の心です。そこが問題となってくるのをいい加減にしておいてよいというものでもありません。むしろしっかりさせるためにこのような三つの量(はか)りがあるのです。しかしこの量りは、台の上に乗せたら数字で結果が出るというようなものではありません。それぞれが、聖教に問い、いま・ここの自分自身に問い、そして同じ教えを聞く人たちの言葉や生き方に問い続けなければ量れないのです。その過程は聞法の過程でもあるのです。
【われも六字のうちにこそ住め 信心をたまわりて生きる 西光義秀 樹心社P145〜P148より】
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畢竟依を帰命せよ http://gsaiko.air-nifty.com/
※西光 師のブログです



三量という言葉、はじめて聞きました。
とりわけ、南無阿弥陀仏の身にさせて頂いた人においては、この三つの量(聖教量・現量・比量)は、南無阿弥陀仏を、より深く味わいさせて頂く量りになります。誠にありがたいことです。
なまんだぶつ なまんだぶつ