手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信疑決判 (本願を疑うか信ずるか)

 法然聖人は、『選択集』を著され、特に第三章において阿弥陀仏の四十八の誓願のなかでも第十八願を根本の願とされ、「王本願」とも選択本願とも名づけられました。すなわちその選択の理由として、諸行は劣であり難ですが、念仏(称名)は、勝であり易である勝易の二徳がそなわっている万徳の帰するところで、「南無阿弥陀仏」の名号のなかにすべてその徳が摂められていることを、〈屋舎の譬え〉をもって説明されました。
 ところで、称名念仏は、衆生においてはまったく他力無作(はからいのないこと)の行であることを示されたのが、第八の三心章における信疑決判(しんぎけっぱん)の大変重要なご解釈です。
 すなわち法然聖人は、善導大師の三心釈を引用され、


深心とは、深く信ずるこころをいう。まさに知るべし、生死の家(迷いの世界)にとどまるのは本願を疑うからであり、涅槃の城(さとりの世界)に入るのは本願を信じるからである。    (浄土真宗聖典 七祖篇:註釈版 一二四八頁取意)


と述べられて、本願を疑うか信ずるかが衆生の迷悟の差となると決判されています
すなわち私たちの往生の道は、ただ本願他力(仏願力)に乗託するほかはないことを明らかにして、他力の信心こそ往生の正因であることを示されました。
 そこで親鸞聖人はこの法然聖人の教えを承けられて、名号が衆生のこころに届いた相(すがた)が信心であり、口にあらわれては称名となるという信心正因・称名報恩の浄土真宗の根本本義、すなわち、南無阿弥陀仏の独用(どくゆう)によって衆生が往生成仏せしめられるという、絶対他力の教えを開顕されたのであります。
真宗Ⅰ(二年次 学習課程)中央仏教学院テキスト 執筆者:日野振作 P131〜P133より】


※屋舎(おくしゃ)の譬え
家は、棟(むなぎ)・梁(はり)・柱などでできているが、諸行はその棟などのようなもので、それをもって家とはいえず、単に一部にすぎない。
念仏は家そのもの、全体を意味すると、念仏と諸行に勝劣の区別があることを喩えられている

阿弥陀仏の独用

阿弥陀仏のひとりばたらき



「本願を信ずる」ですが、
確かに、私の方からいえば、「私が本願を信ずる」となります。
ただ、誤解を招かない表現をするならば、
南無阿弥陀仏のおはたらきによって、(私は)阿弥陀仏の本願を信じせしめられる』
となります。使役動詞であることに留意することが大事だと思います。
主語は阿弥陀さまであって、私ではないということです。
あくまでも、私は受け手です。
ここで、阿弥陀仏の独用、絶対他力と教えて下さっていますように、100%他力なのです。
まことにありがたいことですね。