手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真信の力

 これは今春亡くなられた菅瀬芳英師から直接聞いた話であって、大阪の一紳士の家庭に起った事件である。その紳士には夫人があったが、この紳士元来酒好きな方でしばしば酒を飲み、夜更けて帰ることなどは珍しくはなかった。夫人は色々と苦心して主人の不謹慎を改めさせたいと心配したが、更にその甲斐もなく、時々は議論になる様な事もあった。夫人は心配してキリスト教の牧師の話なども聞かれたけれども、別に功も見えずして過される内、ある機会から親鸞聖人の教えを喜ばれる様になった。それからというものは、主人のお帰りがどんなに遅くても、いつもいそいそとして迎え、お帰りになるまで静かに起きて待っているという様な態度になられた。主人も段々気が引けたというものか、それからは余り夜も更かされない様になった。ちょうど夏の月夜の事である。主人は縁側でビールを飲んでいられ、夫人が傍にお酌をしていられた時、どうしたはずみか、「この酒というものがなかったら、お前にもあんなに心配はかけなかっただろうものを」といわれると、夫人は言下に「何の咎もない酒に罪を被せるこの浅ましい私だから、大悲の親様に永い間の御苦労をかけました。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と御称名を唱えられたので、主人は手にしていたビールのコップを落さんばかりに驚いて、色々夫人から物語を聞き、それが縁となって遂に二人共仏法を喜ぶ様になったというのである。
 夫人の言葉が余りありがたいので、私は今も菅瀬師のいわれた通りを記憶している。若しも「酒というものがなかったら」と話した時、それを好機として諌めようという心持があるなら、その言葉を受けて「何の罪もない酒に難ぐせをつけるあなただから」と先方を責めそうな所を「そんな浅ましい私だから」と自分に引き取って言下に言われたのは、これは如来の勅命さながらに夫人の口を通して顕れて下さったものである。主人を感化しようの、諌めようのなどというあさはかな考えがなく、只主人の言葉を御縁として、うららかな信仰に立ち帰られた時に、知らず識らず出たのが、即ち主人を動かしたのである。誠に大悲をかたじけなく思う次第である。(『島地大等講話集』)
※一部、旧文字を変換
親鸞に出遇った人びと1 同朋舎 P97〜P99より】