手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

身近な阿弥陀さま

 ご信心を頂け、ご信心を頂けというところが強く主張されて、お聴聞なさる御同行の側もそこに引っ掛かって、ご信心を貰わにゃあならん、ご信心を貰うという事はどういう事ぢゃろうかと、ご信心を貰うたらどうなるぢゃろうかと、貰うという事に、頂くという事に何か難しさを覚える様になっておるんではないか。此処のところはお互いによーく聞き分けて行かねばならん大切なところであろうと思うんですね。
 真宗のご信心は賜る信心ではあるけれども、頂く信心ではないんです。だから頂かにゃあならんというてこっちから構えて掛かって行くんぢゃあない、賜るんですから、向うから常に与えて下されつゝあるものだという百八十度の転換をせにゃあいけん。
 もうひとつ云やあ、ご信心を頂く、ご信心を貰うというのは、阿弥陀様を静止体にしとったんです。ジーッとしとるもんの様に思うとったんです。つまり阿弥陀様と迷いの私らが断絶して対立的なかたちになっとったんです。遥か遠い彼方に居られる阿弥陀様とこちらに居る私らとの間で信心が受け渡しされるという様な考え方になっとったんです。阿弥陀様は遥か遠い彼方に居って、私はこっちに居って、呼んで下さるのも向うからたゞジーッとして呼んで下さるというふうな考え方です。こういうふうに誤解されておったんぢゃあないかと思いますね。
【藤澤桂珠和上法話集 第一集 洗心書房 P125,P126より】



阿弥陀さまは、遠い存在ではありません。
この今も、ひとりひとりにピッタリ寄り添っておられます。
ありがたいことですね。
なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。