手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

法蔵の願力

 終りに、
されば聖人の和讃にも、こころを、智慧の念佛うることは、法蔵願力のなせるなり、信心の智慧なかりせば、いかでか涅槃をさとらまじとおほせられたり。この信心を、よくよく決定候はでは、佛恩報盡と申すことはあるまじきことにて候。
 ここに先に申しあげました和讃があります「智慧の念佛うることは、法蔵願力のなせるなり」、私が信ずることも私が称えることも、私のはからいではなくて全く佛のお力である、私が信じたのではない私が称えているのではない、佛力が私にめぐまれて信となり念佛となりたまふのであります。人間の祈りで救われるのでなくて佛に念ぜられて救われて行くのである、ここに今までの宗教の立場とすつくり違った立場があらわれました。次に「信心の智慧なかりせばいかでか涅槃をさとらまじ」と吾々が佛の力をいただかねば佛の境界へ入ることが出来ない、こういう風に親鸞聖人も和讃に仰ってあるとねんごろにおさとしになったのであります。
 つまり信心ということはわたしのはからいでなくて、佛のお慈悲を真受けにすること、又念仏は祈り求める声ではなくて佛の恵みに生きて行く感謝の言葉であります。ここにお念佛が佛恩報謝であると仰せられたのであります。
(※一部、旧字を変換)
【御文讃嘆 梅原眞隆  道發行所(※洗心書房にて購入)P267,P268より】



なにもかも阿弥陀さまのおはからいなのです。
なむあみだぶつ。