手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聴聞ツアー(1日目:4月5日) 稲城選恵和上(光蓮寺:大阪府八尾市)

『宗祖と三部経』について
以下、印象に残ったところです。


●尽十方無碍光如来といわれているように、お念仏(南無阿弥陀仏)は、いつでも、どこでも、だれにでも届いている
●「いつでも」ということは、「いま」ということ
●助かるのが先に届いておるから、「いま」助かる
●「いま」といったら、わし(私)がおるところ、わし(私)がおるところが、「いま」ということ
●「いつでも」「どこでも」これほどありがたいことはない。ありがたいけど、ありがたくもない
※「ありがたくない」について
→いつでも聞けるから!と甘えてしまってドッコイショしてしまうことは、まことにもったいないことだと受け取らせて頂きました
南無阿弥陀仏は浄土の定まりたる証拠なり
→それ以上、付け加えることも差し引くこともありませんね。まったくその通りです。
蓮如上人(御文章4帖目8通)のお言葉ですね。
●どこの宗教も道徳というが、親鸞聖人は道徳的なことはいわれていない
→善をせよ!と勧める時点で、それは親鸞聖人の御教えではなくなってしまいます。
南無阿弥陀仏は信仰の対象ではない
浄土真宗は本願力回向の教えです。南無阿弥陀仏の一方通行の仰せに、「どうもありがとうございます!」とお念仏称えさせて頂けばよいのです。私から突進するのではありませんね。南無阿弥陀仏の仰せに、そのままおまかせさせて頂くだけです。素直にハイ!楽な
もんです。
●(私が)救われていようが、救われていまいが、南無阿弥陀仏のはたらきは届いておる
→すでに南無阿弥陀仏のおはたらきが届いていますので、私は、そのおはたらきに気付かせて頂くだけなのです。ただ南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂くだけです。「どうもありがとうございます!」それで、よいのです。
●間違いないのが先に届いておる
浄土真宗の信心は、こちらの(私の)はからいがない
●私は信じております!ではない。
●どの宗教も信心というが、浄土真宗の信心は、他力の信心という。「他力の」そこが大事である。