手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心は、仏さまからいただくものです

 どんな宗派、他の宗教でも信じるということを大事にします。相手のことを信用しないと、話を聞こうという態度も生まれません。何かを学ぼうという姿勢が育まれるには、何らかの信用、信頼が前提になっています。信じるということが、ある意味で宗教の出発点になっています。
 浄土真宗では、そういうところも大事にしますが、出発点としてだけでなく、奥深いところまで信心ということを考えていきます。「信心ひとつ」と言うほど、信心ということを大切にしています。
 信心という言葉は、一般には動詞として「信心する」と使われる場合が多いようです。この場合は、自分のこころのあり方を変えずに、向こう側の神や仏に何かを期待するという意味合いでありましょう。
 これに対しての名詞の「信心」とは、私のこころが「信心」という状態になること、私のこころが変わっていくことを指すのです。
 インドでは、信心という言葉は、仏法僧の三宝帰依のこころをもつこと、あるいはこころが清らかに澄み、物事をしっかりと把握できること、というような意味をもっていました。以来、仏教の世界では、真実に目覚めることを目指して多くの方が努力してこられました。
 親鸞聖人もそのひとりです。浄土教の先輩方の教えを学ぶなかで、時代や世のなかのあり方、そして自らを深く見つめられた聖人は、人間というのは戒律を守れないもの、煩悩を抱え欲望や迷いを捨て切れず、自分だけよかれと思うようなところが渦巻く罪深い存在だと、考えられたのです。人が自分で起こす信心などというものは、煩悩にまみれた不十分なものでしかない、自分の起こす信心によって仏さまに救ってくださいと期待するのは無理だと気づかれたのです。
 最愛の我が子を亡くした時、明日のいのちも知れない状況になった時、大きな深刻な問題にぶつかった時を考えてみてください。「こころを清らかにして立派な人間になれ、煩悩を取り除きなさい」と言われてもそうなれません。こころが「とらわれ」ているからです。人生の深刻な問題をきっかけにして我がこころのあり方を深く見つめたとき、理屈で言うようにはこころを清らかにできない、そう簡単にこころをコントロールできはしないことに気づきます。澄みわたった清らかなこころは、私のなかからは生まれてこないのです。
 阿弥陀さまは、こちらの能力やこころの善し悪しは一切問われません。賢い者も愚かな者も、幼き者も老いた者も、あるいは善人であろうが悪人であろうが、どのような人であっても、切り捨てられることなく阿弥陀さまのお慈悲に照らされているのです。清らかなこころになったから、その人間を救おうというのではありません。阿弥陀仏は、清らかなこころを持たない私たちに真実のこころをふり向けてくださっています。阿弥陀仏の光に照らされ、そのこころをいただくこと、それを信心といいます。
 ですから、私ども浄土真宗では、信心は阿弥陀仏から与えられるもの、阿弥陀さまからよび起こされるものと捉え、「信心をいただく」とか「信心をたまわる」と表現しています。
 私どもは信心に「ご」をつけて「ご信心」とも言っています。私が自分で起こしたものではなく、阿弥陀さまから恵まれたこころだからです。信心とは、仏さまの力(=他力)によって与えられたものなのです。
 幼い子や赤ん坊はあれこれ計らうことなく、自分のすべてを母親にまかせています。私と阿弥陀さまは、この関係によく似ています。幼い子が母親にまかせておれるのは、母親がずっと呼びかけ、心配し、乳を与え、おむつを換えるなど、いろいろなことをしてくれるからです。だから子どもに安心感が生まれてくるのです。子の安堵感は親が与えたと言っていいでしょう。そこでは子どもの発育の程度や能力、こころの善し悪しは問題になりません。
 親鸞聖人は、信心が浄土へ生まれさとりを開く唯一の原因、たねだと言われました。阿弥陀仏の慈悲のはたらきにまかせた状態、すなわち信心ひとつで人は救われるのです。
 阿弥陀さまのまことのこころをいただくことで、不完全な自分が暖かく包まれるのです。
 そこには無上の安心感とよろこびがあります。
 その信心の表れが、ナモアミダブツのお念仏です。
【朝には紅顔ありて 大谷光真 角川文庫 P167〜P171より】



信心は、自分からつかみにいくものではありません。
阿弥陀さまからたまわるものです。