手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「私の」という所有格

信心はエゴイズムじゃない世界です。
私の信心なんかありはしません。私がなくならないと信心ではないのです。私の信心とか私の念仏とかいう「私の」は余計なんです。「私の」という所有格がとれたところが、お念仏であり、信心の世界であります。
世間の生活の中ではみんな、「私の」という所有格がつきます。
マイホームとかマイカーとか申します。人間はどうしても所有格というものをあらゆる物に付けたがるんですね。私のものかないかでどこまでも争うわけでしょう。私の財産がどうとか、うちの主人、うちの坊や、私の名誉と言って、みんなそれにしがみついていくんですが、そのためにいろいろ苦しみます。
しかし、この「私の」がなくなったところが助かったということになる。
「私の」と言っている間は助からない。「いや私は財産のことなど言ってません、お念仏のことを言っているのです」と言っても駄目なんです。私の念仏と言った途端に、本当の念仏でなくなるのです。


「仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり」


蓮如上人の言われるとおりです。我の意識を忘れたところが信心だと言われているのです。
【弟子一人ももたず『歎異抄』第六条 大峯 顕 百華苑 P21,22より】



「聞こえたままが信心」なのです。