手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法は聴聞にきはまる

ではどうしたら疑惑の状態から信順へと転換できるのかといえば、これはもう本願を聞きつづけるしかありません。
月の光だけが月を知らせ、太陽の光だけが太陽を知らせてくれるように、本願のみことばが本願を知らせ、如来のみことばが如来の世界を知らせてくださるのです。


蓮如上人はそのことを
「至りてかたきは石なり、いたりてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば、菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞に心を入れまうさば、お慈悲にて候ふあひだ信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまるなりと。
といわれています。たしかにそのとおりで、真剣に、しかし焦らずに聴聞をつづけることより道はありません。
聴聞をつづけていれば、お聞かせにあずかったみ教えの威力によって、み教えが疑いえない真実であることを思い知らせてくださいます。
まさに「お慈悲にて」思いがけなく本願のみ言葉をまことと受け入れることのできる身に育てられていくのでございます。


もちろん、私たちは、自分自身の思いをなくしていくわけにはいきません。
死ぬまで、是非、善悪を思いわずらい、いろいろな思いを持ち続けるわけですが、本願を聞くときには、わが思いをちょっと横において、それに力をいれないようにすればよいわけです。
私の考えでいえば、どうしても私は生まれて来て死んでいくとしか考えられないわけで、そしてそれ以上のことは何もわかりません。
けれども、如来さまの方から見れば、私は死ぬのじゃなくて浄土へ生まれていくのであるとご覧になっているわけです。
そのように見とおされた如来さまの知見を信頼し、たのみましょう、ということになるわけです。
【生死を包むもの 梯 實圓 百華苑 P38〜P40より】


【手品師コメント】
誠に深いお言葉です。