手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自信を持っている人

数学の問題でもパズルでも、或いは詰将棋でも詰碁でも、なんでもよろしいですけれども、そういうものを考えておりまして、いくら考えてもわからないという時があるわけです。
そのいくら考えてもわからない時に大体私たちは、これは問題が間違っているんじゃなかろうか、この問題は解けないんじゃなかろうかということをよく考えるわけです。
答が示されているものですといいわけですけれども、その答を見た時に、あっ、こういうふうに答を出すのかということがわかるんですけれども、答が示されていない問題というのがたまにあります。
そういう問題を、いくら考えてもわからない時には、これはどうも問題が間違っているんじゃないかと、そういうふうによく考えます。


ところが、問題が間違っているというふうに考える場合は、大体その問題に自信がある人がそう考えるわけですね。
始めからその問題を見ても全くわからない、という自信の全くない人は、その問題がたとえ解けなくても、問題が間違っているとは考えないですね。
問題が間違っているんじゃないかと考える人は、その問題の解き方に非常に自信を持っている。
自信を持っているのに、長い間考えても、これは解けない。この問題はどこかに間違いがあるんじゃないか。
もともと解けない問題じゃないだろうか、そういうふうに考えるわけであります。


ここでひとつ私の申し上げたいのは、自分のそういう問題を解く力に自信を持っているから、いわばわからないということの責任を問題の方にかぶせてしまう。
自分に解く能力がないと考えずに、問題の方が間違っていると、そういう問題の方に責任をかぶせてしまうということがよくあるわけでございます。
【やわらかな眼 内藤知康 本願寺出版社 P31,32より】


【手品師コメント】
この今救う!われにまかせよ!と、呼び続けておられる阿弥陀さま。
その一方通行の仰せに、ハイ!と素直に応えられない。
それは、自分のものさしで、みているからです。
それは、自分の都合が最優先されているからです。
別の言葉でいえば、阿弥陀さまの上に立ってしまっています。
阿弥陀さまは何処へ・・・・・・
誠に申し訳ないことです。
この文章を読んで、そのように受け取らせて頂きました。