手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法を聴聞するというのは

私どもは助かるような身になって助けてもらうんじゃないのです。
むかしは助からん私であったけれど、よく仏法を聴聞して今は助かる身になった。
去年までは地獄へ向かっていたが、今年からお浄土へ向かうようになったのではありません。
仏法を聞こうが聞くまいが、地獄しか行きようがない私であることに変わりはない。
その地獄へ行く私が、如来様の御本願によってそのままでお浄土行きなんです。
仏法を聴聞するというのはここのところを聞くことです。


助からない私が助かるのは何故か。
ひとえに如来様の不思議なはからいのお蔭です。不思議な力が助けてくださるんですね。その不思議な力が私共が生まれてくる前からもう働いているわけです。私共の誕生もまた、その不思議な力のはたらきの中で起こったんです。
しかし、このことに気が付くのは、仏法を聴聞して初めて気が付くのであります。
【よき人の仰せ『歎異抄』第二条 大峯 顕 百華苑 P70より】


【手品師コメント①】
阿弥陀さまのお救いは、あるがままそのままのお救いです。
だから、自分のはからいは無用です。
ただおまかせです。
【手品師コメント②】
もうすでに、阿弥陀さまの不思議なはからいが働いていますので、
「わたしは、そのはたらきに気付かせて頂きました」となります。