手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心

象徴というものは、色々な場合に考えられます。たとえば、赤いバラが情熱の象徴であるというとき、バラと情熱を結びつける必然性はありません。しかし、赤いバラが人間の激しい情熱をあらわすと認められると、バラは情熱の象徴となります。


「百万本のバラ」という歌がありますが、その歌詞はこういうことを歌っています。ある女優さんに恋をした貧乏な青年が、その女優の窓の下をありたけの金で買った百万本の赤いバラの花でうずめます。しかし女優は誰か気まぐれな者の仕業だと思って、青年の心に気づきません。青年は絶望して死んでしまうというような歌詞だったと思います。この場合、青年にとっては、赤いバラは自分の情熱の表現です。しかし、女優にとってはバラは単なる花にすぎません。ある事物について象徴ということを言うのは、こういう場合をいうのです。青年の情熱は目にみえません。しかし、青年にとっては、それはリアルな事実です。それを表現するのが赤いバラです。バラは見えない青年の情熱を表現しているのです。しかし、それが認められないとき、バラは象徴のはたらきをしません。単なる花にすぎません。


従って、バラが象徴であるためには、それを認めるということがなければなりません。それが認められると、バラは情熱という見えないものを表現することができます。カルメンがくわえる赤いバラが、カルメンの情熱を象徴していることは、誰もが認めているのです。


宗教的象徴もそれと同じところがあります。名号は仏さまの衆生を救うはたらきの象徴です。この場合、象徴とはたらきとが別にあるように思われますが、別ではなく、名号そのものがはたらきなのです。名号が、日常的には隠された仏さまの衆生を救おうというはたらきにほかならないのです。そのことを最も明確にされたのが、親鸞聖人の六字釈、すなわち「帰命は本願招喚の勅命なり」というお言葉ではないでしょうか。


しかし、名号のそのはたらきは、私たちによって受け止められなければなりません。先の例で言ったように、名号を聞く者に認められなければなりません。そうでなければ、宗教的象徴としてのはたらきをもちません。それは単なる呪文であったり、記号にすぎないものとなってしまうのです。名号を「本願招喚の勅命」と受け止めることこそ、「信心」なのです。
【これからの浄土真宗P72-P74より 石田 慶和(龍谷大学名誉教授、初代仁愛大学学長)本願寺出版】


【手品師コメント】
人からバラをもらったとき、単なる花として受けとるか、くれた人の気持ちとして受けとるか、そこには非常に大きな違いがあると思います。
南無阿弥陀仏は呪文や記号なんぞじゃありませんね。