手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

聴くより先のお救いを聞く

熱心に聴聞し、真剣に求めていくことは、自力心だといわれようとも、その自力心が働かないと、聞法の縁も恵まれないのであるから、真剣な求道心は、否定媒介的に深い意味をもつものであることは事実である。
あたかも建築現場での足場での役割のようで、こちらが仕事をする場合には必要であっても、完成には、これほど邪魔になるものはないのである。聴くより先のお救いを聞く、聴かなければ聞こえないが、聴いていけば聞こえるというものでもない。
聴の延長に聞信があるのではない。むしろ聴を否定する名号法を聞信するのである。
それゆえに、他力の信心のものがらは、こちらの思いや理解ではない。名号法そのものである。
【言葉のひびきP44 豊島学由 和上(探究社)より】


【手品師コメント】
非常に深いお言葉ですね〜。
「熱心に聴聞しましょう!」とか「真剣に求めさせて頂きましょう!」という表現は、どうしても自分中心になってしまいますし、力みがでてしまいます。本願力回向の救いと対峙してしまうんですね。