手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

もったいない

南無阿弥陀仏はこの私はどこにいても、いつでもどこでも既に与えられ、とどけられているのである。 ・・・略・・・
いつでも、どこでもは今、ここということであり、更にだれにでもということはこの私ということである。
今ここに存在しているこの私の上に自ら求めるに先行して既に与えられているのである。
これこそ南無阿弥陀仏の六字の法である。
既に自ら求めるに先行して与えられていても、自らの側から拒絶しているから遇うことが出来得ないのである。
『御文章』にも源信和尚の『往生要集』の言葉を引用され「たからの山に入りて、手を空うしてかえる」とある如く、既に与えられていても自らの拒絶によって遇うことが出来得ないのである。
【安芸門徒 遠く宿縁を慶ぶ  稲城 選恵和上(探究社)p48,49より】