手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏さまのはたらきを対象化して捉えようとすると・・・

普通一般に「信じる」とか「疑う」と言いますと、まず自分がいて、その自分の前にある、物であったり、心であったり、つまり何らかの対象となるものを「信じる」とか「疑う」ということになります。このような見方で「本願を信じる・疑う」というと、「本願」とは仏さまのはたらきですから、自分が「仏さまのはたらきというもの」を信じるか疑うかということになります。
このように、仏さまのはたらきを対象化して捉えようとすると、仏さまのはたらきは、いつも自分の前にあるものとなってしまい、決してわが身を包むものとはなりません。ですから、どうも「自分には信じきれないのです」などということになりかねません。
【ひらがな正信偈 森田真円 (洗面器の湯)本願寺出版社P263より】


【手品師コメント】
南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまの御はからいであって、わたしのはからいではありません。
わたしから、阿弥陀さまに差し向けて信じるのではありませんよ!と教えて頂きました。