手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗のお念仏

 

蓮如さまは、「この世の常識の世界では、南無阿弥陀仏の六字の名号を、不思議な超能力を持つ言葉だから、その言葉を仏、菩薩、天人に差し上げて、自分の善き行ないにしようとする。親鸞さまの教えをいただくものは、そうであってはならない。もしこの南無阿弥陀仏が私の作ったものならば、仏、菩薩に称えてあげることもできるだろうが、南無阿弥陀仏はそのようなものではない。この目覚めた人からの贈り物、南無阿弥陀仏にめぐりあい、阿弥陀如来の明るい世界を知り、私の人生はこれしかないと、文句なしに頭が下がるならば、素晴らしい人生が始まる。その嬉しさのあまり、有り難う、有り難うと、お礼を申すのが浄土真宗のお念仏なのだ」と教えられた。

【現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 37  高松信英 法蔵館 P32より】

 

目覚めた人からの贈り物、つまり、「南無阿弥陀仏のはたらき」のことですね。贈り物といっても、「はたらき」ですので色や形はありません。「南無阿弥陀仏のはたらき」を知らされた(知らされている)人は、自然とお念仏(南無阿弥陀仏)が口からこぼれ出ます。ありがたい、ことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

人は何のために生きるのか❓

 

 浄土真宗に関心のある友人に「死んだ先はどんなところだと思うか?」と尋ねました。「真っ白な世界、無の世界だと思う」と答えられ、「親鸞さまの教えはもっと確かな教えなのにもったいない・・・・・・」と思いました。その後、同じ質問をほかの人たちにもしたところ、ほとんど同じような答えが返ってきました。

 何のために人と生まれてきたのでしょうか。まよいの世界からさとりの世界に乗り換えるため、仏さまに(成)る、「成仏(じょうぶつ)」するためです。お釈迦さまの教えを信じる人は、人間の身体がなくなって完全なさとりに入り仏さまになります。仏さまはまよいの人びとを救うことが仕事ですから、成仏したら苦しむ人びとを救う仕事があります。すると、仏さまになったら「はたらき」となって、浄土からこの世に戻ってきて人びとを救うことになります。

【やさしい仏教の話 桜井俊彦 法蔵館 P86より】

 

お釈迦さまの教えを信じる人」とは、浄土真宗の教えでいえば、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人」ということです。「死んだら仏」という言葉がありますが、それは、あくまでも「このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人が亡くなったら」という大前提があります。とても大事なところで、誤解がないようにしたいです。

そして、タイトルの

「人は何のために生きるのか❓」ですが、

ズバリ、

「仏に成るため(成仏するため)です」

実に明快です。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

人間駅は乗り換え駅

 

 平安時代に地獄の様子をくわしく説いた源信僧都(げんしんそうず)は、六道をグルグル回るうちにたまたま地獄で仏さまにあう機会に恵まれ、一分間の休憩をもらって人間の世界に生まれてきた、といわれています。

 《人間に生まれた意味は、まよいからさとりへ乗り換えるため》です。乗り換えてどうするのでしょうか。仏さまになって(成仏して)、苦しみ悩む人びとを救います。この世では思うように人びとを救うことができなかったので、仏さまになってお釈迦さまのように人びとを救います。人間の世界に還(かえ)りゆく相(すがた)「還相」をあらわすことは人間の力では不可能ですから、阿弥陀さまのはたらきをふりむけて(回向)いただくわけですね。

【やさしい仏教の話 桜井俊彦 法蔵館 P88、P89より】

 

 まさしく、この世界(人間の世界)は、浄土に生まれるか、再び迷いの世界に戻ってしまうか、分岐駅(乗り換え駅)といえましょう。いま・ここで・私が、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる否か、千載一遇のチャンスです。

 南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人は、この世で寿命が尽きますと、還相回向のはたらきにより、「浄土で悟りを開いた後、再び迷いの世界(この世界)に舞い戻って、衆生(迷える人びと)を教化する」とご教示いただいています。本当にありがたいことです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

還相回向(げんそうえこう)

(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人は、この世で寿命が尽きると)浄土に往生してのち、再び迷いの世界に還り来て、衆生を教化することとした。親鸞はこれらの回向を本願力回向であるとして、回向の主体を阿弥陀仏であるとした。

【浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)参照】

 

禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし

 

 大掃除が終わり、疲れてテレビをつけたまま寝てしまいました。

 朝の四時半ごろに目が覚めたら、時代劇の「暴れん坊将軍」が放映されていました。世をはかなんで入水自殺をしようと娘を助けた徳川吉宗「『禍福はあざなえる(よりあわせる)縄のごとし』と言うではないか。生きていればこそいいことかもある」というセリフが聞こえてきて驚きました。アンテナを張っている(関心を持っている)と、受信するものなんですね。

 調べてみましたら、中国の『史記(しき)』という歴史書の中にある言葉でした。「禍(わざわい)が福になり、福が禍のもとになったりして、この世の幸・不幸は、縄のより合わせたように、表裏をなすものだの意」とありました。

 人間の生活・一生を一本の縄とすると、その縄は禍福の二つがより合わさって成り立っているということですね。

 「人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬」は、おもしろい話ですが、最後は幸せで終わることを予定して語られることが多いような気がします。また、一本の縄にたとえれぼ、バイオリズムのように好調期と不調期を交互に結び合わせたやうで、私は物足りなさを感じていたようです。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」は、「表裏をなすもの」と説明してあるように、うまく言いあてていると思いました。

 お釈迦さまは、「まよいがあるからさとりというのであって、まよいがなくなればさとりもなくなる。まよいを離れてさとりはなく、さとりを離れてまよいはない」(四十二章経:しじゅうにしょうぎょう)と説かれています。違っている二つのものがそのまま一つ、が仏教の教えですね。

【やさしい仏教の話 桜井俊彦 法蔵館 P64より】

この文章を読んでいまして、「生死一如(しょうじいちにょ)」という(仏教の)言葉が思い浮かびました。「生死一如」とは、「生きるということと、死ぬということは、紙の表と裏のように切り離せない(仏教辞典より)」という意味です。「死の縁、無量なり(覚如上人)」という言葉がありますように、いつ死んでもおかしくないのがこの世界です。いま・ここで・わたしが、存在している(生かされている)現実をあらためて考えたい、と思います。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

お念仏する、といっても

 

「助けてくださ 阿弥陀さま」と、お念仏するのか

「助けてくださ 阿弥陀さま」と、お念仏するのか

えらい違いです。

【1995年 梯 実圓 師「本願のこころ」より】

※ 浄土真宗の法話配信(YouTube)

 

「助けてくださ! 阿弥陀さま」

→念仏の力を利用して助かろうとする

「助けてくださ 阿弥陀さま」

→念仏は、私を助けて下さった阿弥陀さまに対するお礼(報恩感謝の念仏)

「助けてくださ(能動的)」と「助けてくださ(受動的)と、たった1文字の違いですが、意味は180度違います。後者の「助けてくださる  阿弥陀さま」という心持ちでお念仏(報恩感謝の念仏)を称えたい、ものです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

偉くなっても駄目

 

どんなに仏教の教えを学んで、知識が豊富になっても、阿弥陀如来の明るい眼(南無阿弥陀仏のはたらき)とめぐりあわなければ、すべて空しいことである。阿弥陀如来の広大な心に文句なしに頭が下がって、初めて明るい人生が歩めるのだとうなずいて、生涯その道を歩むならば、その人の人生は素晴らしいものになるであろう。

【現代語訳   蓮如上人御一代記聞書  高松信英  法蔵館   ●11  偉くなっても駄目  P19より】

 

 確かに、偉くなるのもよいかもしれません。人から感謝されることは生きる糧にもなるでしょう。優越感にも浸れるでしょう。しかしながら、たとえ、偉くなったとしても続かないのが人の世界です。続いたとしても、死をもって完結します。

 偉い人もそうでない人も、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付く」ことなしに本当の幸せはありません。ここでは、「偉くなっても駄目」と駄目(ダメ)出ししています。親父ギャグが冴えたところで結びといたします(笑)。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏