手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし

 

 大掃除が終わり、疲れてテレビをつけたまま寝てしまいました。

 朝の四時半ごろに目が覚めたら、時代劇の「暴れん坊将軍」が放映されていました。世をはかなんで入水自殺をしようと娘を助けた徳川吉宗「『禍福はあざなえる(よりあわせる)縄のごとし』と言うではないか。生きていればこそいいことかもある」というセリフが聞こえてきて驚きました。アンテナを張っている(関心を持っている)と、受信するものなんですね。

 調べてみましたら、中国の『史記(しき)』という歴史書の中にある言葉でした。「禍(わざわい)が福になり、福が禍のもとになったりして、この世の幸・不幸は、縄のより合わせたように、表裏をなすものだの意」とありました。

 人間の生活・一生を一本の縄とすると、その縄は禍福の二つがより合わさって成り立っているということですね。

 「人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬」は、おもしろい話ですが、最後は幸せで終わることを予定して語られることが多いような気がします。また、一本の縄にたとえれぼ、バイオリズムのように好調期と不調期を交互に結び合わせたやうで、私は物足りなさを感じていたようです。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」は、「表裏をなすもの」と説明してあるように、うまく言いあてていると思いました。

 お釈迦さまは、「まよいがあるからさとりというのであって、まよいがなくなればさとりもなくなる。まよいを離れてさとりはなく、さとりを離れてまよいはない」(四十二章経:しじゅうにしょうぎょう)と説かれています。違っている二つのものがそのまま一つ、が仏教の教えですね。

【やさしい仏教の話 桜井俊彦 法蔵館 P64より】

この文章を読んでいまして、「生死一如(しょうじいちにょ)」という(仏教の)言葉が思い浮かびました。「生死一如」とは、「生きるということと、死ぬということは、紙の表と裏のように切り離せない(仏教辞典より)」という意味です。「死の縁、無量なり(覚如上人)」という言葉がありますように、いつ死んでもおかしくないのがこの世界です。いま・ここで・わたしが、存在している(生かされている)現実をあらためて考えたい、と思います。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏