手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏の世界


 東条大将の最後の歌にこういうのがあります。先生、いよいよ明日の夜中の零時1分に殺されるということを昨晩聞きました。寝ておる間に引っ張り出されて殺されてはたまらんと思っておったんだが、24時間前にそれを聞かせてくれてうれしかった。しかし、ここの巣鴨の所長に挨拶をして帰るのを忘れたから、先生からよろしく挨拶をしておいてくださいと。昨夜、独房でゆっくり休みまして、今朝起きて、こんな歌を家内に作りましたと。どんな歌ですかと聞きますと、
 さらばなり 有為(うい)の奥山 けふ(今日)越えて 弥陀のみもと(御許)に 行くぞうれしき
と。長い間、いろいろと迷いに迷うてきた私も、いよいよ明日は阿弥陀様のお浄土へ連れて行ってくださるのだと、「さらばなり 有為の奥山 けふ越えて」 有為の奥山というのは、人間の住むこの世界です。生まれたり、死んだり、戦争したり、けんかしたりするこの世界のことです。これも今日限り、「弥陀のみもとに行くぞうれしき」と、これは往相回向(おうそうえこう)です。その次の歌が、
 われ往(ゆ)くも またこの土地に かへりこむ 国に報ゆる ことの足らねば
と。お浄土へ連れて行っていただいてもすぐさま戻ってきます。栄えた2600年の日本も、こういうふうしてしまった。1日も1時間も早く出かけてきて、文化日本の平和な世界の建設に働かねばと。日本人は言うまでもない。東洋の大勢の方々にご迷惑をかけました。この度、私は処刑を受けて死んでゆくけれども、ともかく天皇様だけにはご迷惑がかからないように、たとえ死刑で自分が殺されても、大勢の方々の戦争をされた人、空爆で家をなくした人、その上、親を亡くした人たちに申し訳がない。殺されても仕方がないけれども、「われ往くもまたこの土地に帰ってきます」と。「国に報ゆることの足らねば」と。申し訳のないことをしましたと。その反省の歌、家内に作られたのです。その日の朝でした。ともかくお念仏によって救われて、みんなが後から後からと西方のお浄土へ往生されたのです。
【A級戦犯者の遺言 教誨師・花山信勝が聞いたお念仏 P41,P42より 青木 馨 編 法蔵館】

 

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 教誨師・花山信勝 師(浄土真宗本願寺派、東京大学名誉教授)は、先の世界大戦で、戦犯者とされた人たちの死刑に立ち会った唯一の僧侶です。ここでは、A級戦犯者として処刑された東条英機(戦争を始めた時の総理大臣)の言葉について採り上げました。
 紹介しました文章において、いろいろな受けとり方があるかと思います。わたしとしましては、やはり、拠りどころは阿弥陀さま、南無阿弥陀仏なんですね。阿弥陀さまの世界は決して夢物語などではありません。実際ある、ということをあらためて分からせてもらいました。いつでも・どこでも・誰にでも、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきは、はたらいているのでした。ありがたいことであります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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「南無阿弥陀仏」という言葉

 

言葉は中国から渡来した言語ではない。
かつて私たちの遠い祖先は「ことば」には霊が宿り、
「ことば」は葉のように飛散するので、
「ことば」をとどめることは霊性の冒瀆と考えていた。

 

言葉を中国から渡来した文字でとどめることにしたときから
私たちの祖先は「ことば」が飛散することのないものと考え、
「ことば」が霊性をもつことを忘れ
言葉を日常の手段とした。

 

「ことば」は呪文でもなく、「ことば」で占うこともできない。
しかし、「ことば」には霊性が宿っている。
「ことば」は発せられて四方に飛散する。

 

飛散する「ことば」はヒトの魂に沁み入り、
時に傷つけ、時にやすらぎを与える。
だが、私たちが「ことば」の霊性を忘れて久しい、実に久しい。
【言葉について16  中村 稔  青士社より】

 

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この詩を、大胆に「南無阿弥陀仏」視点で受け取るとどうなるでしょうか。

私なりに書いてみました(下記、青字)。

 

「南無阿弥陀仏」という言葉には、阿弥陀さまの命が込められている。その「南無阿弥陀仏」のはたらきは、三世十方にとどろいている。そして、誰ひとり漏れることなく、ひとりひとりに「南無阿弥陀仏」が沁み入っている。遅かれ早かれ、その(南無阿弥陀仏の)はたらきに気付かされるときがやってくる。そのとき、この上ないよろこびが自然と湧いてくるのだ。そのよろこびが具現化された言葉が、自ら(私の口から)発する「南無阿弥陀仏」という念仏である。つまり、阿弥陀さまと私は「南無阿弥陀仏」という言葉を媒体として会話をしている。そこに、なんとも言いようもないやすらぎを感じるのである。

 

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厳粛な事実(生まれたら死ぬ)

 

彼は、人生を大好きな将棋に例え「死が迫っている今の自分は、どうしても詰みから逃れられない将棋と同じだ」と話しました。私が「人生を将棋に例えるなら、手数が違うだけで誰もが詰んでいるのではないですか」と返すと「そういう考え方もありますね」とつぶやきました。「誰もが死を前提に生きている」という絶対的な真実に救われたような表情でした。
【朝日新聞be がん患者のこころ2 2020年5月16日 (土)付より】

 

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本日の朝日新聞be(4面)の記事です。遅かれ早かれ、人は死にます。それは今日かもしれません。いま、寿命が尽きても満足して旅立てるでしょうか。今一度、(私の)生死問題について考えてみたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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詰将棋(3手詰め)

浄土教の独特の宗教的境地

 

  妙好人と言われる人たちもその悲嘆懺悔(ひたんさんげ)と歓喜とをひとつに語っています。その歓喜は、煩悩は依然としてなくならないが、他面その煩悩の根が本願力によってたち切られたというところがあるからです。それが住正定聚ということです。そこに浄土教の独特の宗教的境地があるのです。
  聖人はそういう在り方を、決して断煩悩ということではない、罪悪深重の凡夫は煩悩をなくすることはできない、しかしそのままで無上涅槃に至ることが約束されている、と言われるのです。そういう世界に凡夫も聖者も五逆謗法の輩もいったん帰入すれば、諸川の水が海に入って同じ味になるように、等しい利益を得ることができる。
  如来の本願に帰することによって、自力疑心の闇が破られても、心におこる三毒五欲の煩悩がつねに真実信心の天をおおう雲や霧となる。しかし太陽を雲霧がおおっても、その下はいつも明らかで闇がないように、如来の慈悲の心より発する光はつねに私たちを照らしまもりたまうのであると、こういうことです。

 【親鸞 教行信証を読む 石田慶和 響流書房より】

 

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「煩悩をもったそのままで、無上涅槃に至ることが約束されている」という世界があると、親鸞聖人はご教示くださいます。これは、浄土教の独特の宗教的境地です。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた妙好人といわれる人たちも異口同音にその境地を語っています。先人のそういった言葉や証言はとても頼もしいです。
おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

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自分さえよければそれでいい?!

 

【お坊さんの話WEB 「無明の闇を破る(約25分)」柳川眞諦 師より】

 

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 このご法話の冒頭で、「三尺三寸箸」の話がでてきます。新型コロナ禍の最中、特に、この話はとても参考になるといいますか、学びがあります。日常生活において極楽と地獄は共存しています。その極楽と地獄の違いを分かりやすい喩えで示されています。同じ環境(空間)で生活している状況下、我々の心の持ちようによって、極楽にもなり地獄にもなる、ということを教えて頂きました。
 後半は、「自分さえよければそれでいい」ということについて、仏教(お釈迦さまの教え)の視点から話されています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200510135043j:plainえほんキッズ『三尺三寸箸』完全版(絵本ムービー)より

 

 

2bosatsu.azabu-kozenji.or.jp

愛犬との別れ

 

  令和2年3月28日(土)、愛犬が旅立ちました。彼と共に暮らした16年間は、我々家族にとって、とても楽しい日々でした。迎えて送るという立場は本当に辛いものです。今頃、彼は何をしているのかな、と思ったり考えたり。遅かれ早かれ、彼も阿弥陀さんに出会う日が来るでしょう~。
  いま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた(気付かされている)人は、寿命尽きれば仏となります。そうなれば、仏の智慧で知りたかったことすべてが明確になるのでしょう。愛犬がどうしているのかも。
  家内の希望で、愛犬の写真を仏壇にも置いています。毎朝、家内は、亡き愛犬に手を合わせているのですが、その奥には、「南無阿弥陀仏」の名号があります。本人は阿弥陀さまに手を合わせているという意識は低いかもしれませんが、愛犬を通して自動的に阿弥陀さまに手を合わせている光景を見ますと、なんか不思議な感じがします。
  愛犬が元気な時から、彼の耳元で「南無阿弥陀仏」と囁いていました。これも阿弥陀さんに早く遇える縁となるのかな、と全く都合がよい思いかもしれませんが、そんなことをしていました。実際どうなのでしょうか。そういうことも含めて、私自身、寿命を終えた時、分からせてもらえる。そして、南無阿弥陀仏となって、迷っているすべてに、はたらきかけるという素晴らしい活動ができることに感謝です。「南無阿弥陀仏」があって本当によかったと思える日々です。
おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20190104182036j:plain蓮太郎(ポメラニアン)   2004年1月30日~2020年3月28日

 

追記:5月17日(日)

btejina.hatenadiary.com

「南無阿弥陀仏」の受けとり方の違い

 

南無阿弥陀仏の六字を、他宗には大善大功徳にてあるあひだ、となへて、この功徳を諸仏 菩薩 諸天にまいらせて、その功徳をわがものがほにするなり。一流にはさなし。この六字の名号、わがものにてありてこそ、となへて仏 菩薩にまいらすべけれ。一念一心に後生たすけたまへとたのめば、やがて御たすけにあづかることの、ありがたさありがたさとまうすばかりなりと、仰せ候ふなり。
《蓮如上人御一代記聞書 本 (三三)》

 

【訳】
南無阿弥陀仏の六字名号を称えるにあたって、他宗では、この六字名号は大善大功徳を具えたものであることから、これを称えて、その功徳を諸仏・諸菩薩、さらには諸天にさしあげてご利益をえようと、名号の功徳を自分のもののようにしているのである。親鸞聖人の流れをくむ浄土真宗では、そうではない。この六字の名号がもし自分のものであるなら、それこそ、これを称えた功徳を仏菩薩にさしあげることもできよう。ただ一筋に、来世には必ず往生させていただくことよとお助けを信じるとき、ただちにお助けにあずかるのである。そのことを、何とありがたい喜び、念仏を申すばかりである」と、蓮如上人は仰せになりました。

 

【解説】
(前条につづいて、)信後の他力念仏のすがたが語られています。とくに六字の名号を称える念仏について、他宗と浄土真宗を対比して、両者の違いを述べられているのが注目されます。
 名号は大善大功徳、すなわちあらゆる善の根本であり、功徳の本(もと)であることに相違はありませんが、他宗では、それをわがものにしてしまっているのです。そこでそれを称えてその功徳を仏菩薩にさしあげようとするのです。
 これに対して、浄土真宗では、名号の功徳は如来より恵まれるもので、この名号のはたらきにより私たちは救われていくのです。そこでその名号を称えるのは、如来のお助けにあずかることへの謝念の発露であり、ありがたいことよと感謝する喜びなのです。
【蓮如上人御一代記聞書 瓜生津隆真 大蔵出版 P68、P69より】

 

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 「南無阿弥陀仏」の受けとり方は、浄土真宗と他宗では、まったく違います。阿弥陀さまとわたしの関係(方向)が180度違うのです。真反対なのです。浄土真宗では、阿弥陀さま⇒わたし(阿弥陀さまに、ただおまかせ)。他宗では、わたし⇒阿弥陀さま(自分の思いや願いを、阿弥陀さまに差し向ける)。「南無阿弥陀仏」は「南無阿弥陀仏」なのですが、わたしの受けとり方ひとつで、「南無阿弥陀仏」の意味合いがコロッと変わってしまう点に留意したいものです。
 阿弥陀さまの救い(浄土真宗の教え)という視点からみますと、自分に自信がある人、自分に拘りがある人、自分にプライドがある人、は自分への執着心がハードルになっているのではないでしょうか。人として生活していく分には、活力となってよいのですが・・・。主語が「阿弥陀さまは」となればしめたものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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