手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「南無阿弥陀仏」は私への呼びかけ

 

 発願廻向ということについても、ふつうなら願をおこして修行して善根功徳をまわしむけるということですが、その意味を転じて、如来が発願して衆生の浄土往生のための行をまわしむけほどこされるということと解される。
それから善導大師は「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり」と言われるのですが、その行とは選択本願であると聖人は説明される。こういう解釈の背景には、三国七祖の引用文の理解があって、それに基づいてこう言われているのです。
 必得往生についても、不退転の位につく、すなわち現生正定聚あるいは住正定聚ということをあらわしているとされます。大経の願成就文には「即得往生住不退転」とあり、「易行品」には「即時入必定」とある。この即得の即はその本願力を聞く、聞くというのはただ耳に聞くのではなく、いわば全身で本願力をうけとめる。その本願力というのは、本願招喚の勅命ですから、それは南無阿弥陀仏。その南無阿弥陀仏は私たちが口で称えて浄土へ生まれたいと願うということではないことはここではっきりわかると思います。
 南無阿弥陀仏は私たちに対するよびかけです。それが行ということの根本の意味です。何故大行というか、それは南無阿弥陀仏が衆生への呼びかけであるからです。その本願力を私たちがうけとめることによって浄土に生まれる本当の原因が定まる。それは長い間かかることではない、時間的にはごく短い間。それを別なことばで言えば一念、信一念と申します。
【親鸞 教行信証を読む 石田慶和 響流書房より】

 

f:id:tarou310:20200223064919j:plain

「南無阿弥陀仏」は私への呼びかけである、とご教示いただきます。私は、阿弥陀さまの呼びかけに「ありがとうございます!」と応えるだけでした。阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」と呼びかけ、私は「南無阿弥陀仏」と応える。「南無阿弥陀仏」は単なる言葉ではありません。「南無阿弥陀仏」には、阿弥陀さまの命が込められています。その命(南無阿弥陀仏のはたらき)を全身で受けとめたい、ものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200427053159j:plain

同じ言葉でも捉え方次第でまったく意味が違います

 

 ある会話の中で、「売れてない」というフレーズの意味の取り違いがありました(笑)。


「売れてない」
売れずに、まだ、沢山、物が残っている


「売れて、ない」
売り切れて、物が全く残っていない


  おもしろいもので、言い方ひとつで、全く意味が違います。意味が真逆になってしまうことに驚きます。「売れてない」の真ん中に「、」(会話では、間が入る)だけで意味が180度変わってしまうのです。

 

 「南無阿弥陀仏」も然り。受けとり方ひとつで、意味合いがコロッと変わってしまいます。「魔除けやなにかの呪文」のように受けとっている人もいるでしょう。あるいは、「阿弥陀さまの呼びかけ」と受けとっている人もいるでしょう。
皆さんは、いかがでしょうか。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200417135547j:plain

 

大丈夫。

 

   昨晩(4/15)のWEB御法話での言葉です。

『南無阿弥陀仏』を「大丈夫。」と表現されました。とても印象的でした。

【法話生配信 第2段! 4/15(水)浄土真宗Liveオンライン生配信 松本智量 師 延立寺住職(東京・八王子)本願寺派より】

  

f:id:tarou310:20200223064919j:plain

『南無阿弥陀仏』という言葉には、阿弥陀さまの命が込められています。「私にまかせなさい、大丈夫だよ!」と、私に力強く呼びかけられています。私は、「ありがとうございます!」とただ応えるだけでした。『南無阿弥陀仏』は、阿弥陀さまと私が繋がっている証拠です。もっというならば、私は、「一心同体南無阿弥陀仏」なのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200416133006p:plain    【延立寺(東京・八王子)掲示板より】

 

追記:5月3日(憲法記念日)

f:id:tarou310:20200503082257j:plain読売新聞 朝刊(5月3日)より

聴聞の姿勢

 

   蓮如の子 實悟の記録によると、文明13年(1481)前住職の本願寺第7代存如の25回忌法会の時、山科本願寺において4日間にわたり能を催した。この時、2日目にも演じた狂言「鶯の鳥さし」を蓮如は大いに感心し気に入られ、3日目にもまたこれを所望して演じさせたという。
 この狂言は、鶯を捕らえようと、けんめいになっている男のところに、ある者が来て、男にたいして着ている衣装がほしいと言った。男は鳥さしに熱中していたので、言われるままに着けている着物をぬぎすて、腰にさしていた刀を脇差までもみな渡してしまった。捕えようとした鳥に逃げられて、はじめて男は自分が裸になっていることに気付いた。そして、「やるまいぞ、やるまいぞ」と追っかけ舞台を走りさるという筋書きである。これをみた蓮如は、「鳥をとらえようと、ひたすらそのことに心をかけ、他のことは何もおぼえず知らず、という姿勢は、まことに殊勝である。仏法においても、この鳥さしの男のように、熱心に聴聞することが大切である」といわれたという。
【日本の社会と真宗 千葉乗隆 編 思文閣出版 P5、P6より】

 

f:id:tarou310:20200223064919j:plain

  「ただ仏法は聴聞にきわまることなり(御一代記聞書)」
と、蓮如上人はご教示くださいます。
  ここでは、その聴聞とはこうあるべきという「聴聞の姿勢」を、狂言の「鶯の鳥さし」を通して示して頂きました。聴聞に限らず、ここまで熱中できることは、そうそうないでしょう。いかがでしょうか。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200407165733j:plain

第6回 蓮如上人ゆかりの狂言「鶯」より(2007年2月14日)

 

honganjifoundation.org

木を見て森を見ず

 

 「木を見て森を見ず」
物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと(故事ことわざ辞典)、という意味です。
 浄土真宗の視点でいいますと、
「自分(わたし)にばかり固執して、阿弥陀さまをみない」ということでしょうか。
日常生活同様、浄土真宗の教えを聞くときも、広い視点で自分(わたし)をみつめていきたい、ものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

f:id:tarou310:20200405054747j:plain

「後生の一大事」を心にかけて(大峯 顯 師 法話)

 

真理というのは一瞬で分かる。

あ、そうか(私は阿弥陀さまに)お助けいただくんか。

これだけです。

(大峯 顯 師 法話より)

 

f:id:tarou310:20200223064919j:plain

とても心地よい御法話でした。浄土真宗でいう「信心」について、ど直球でお話頂いています。大峯先生のルーツにも興味が湧きました。また、ユーモアの中に厳しいお言葉、身に沁みました。果たして笑えるのか(笑)。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 


大峯顯師法話「後生の一大事」を心にかけて

平成23年2月25日 本願寺津村別院ホール(1時間40分)より

 

f:id:tarou310:20200405052429j:plain

果たして当たり前なの

  本日の読売新聞(朝刊)に、以下のような記事がありました。
  ある男性の悩みとして、
「おむつ交換台がある男性用トイレが少なく困っているという現状」があるというものです。実際、危険を承知で娘を便座のふちに立たせて、おむつの交換をした経験があった、とのこと。「育児は母親がするのが当たり前」という現在の風潮をもろに浮き彫りにしている事例です。

   話は変わりますが、

「私が・いま・ここで、生きている」という現実はいかがでしょうか。

果たして当たり前なのでしょうか?

 

f:id:tarou310:20200331111441j:plain